影章:逆鱗
「きっと私たちは、王国で1位2位を争えるぐらい、愚か者ですよ」
部屋には湯気の薄れた茶器が残り、窓辺へ差した光はゆっくりと床を這っている。
――愚か者。
一国の王子に投げられたその言葉を、アレックスは否定しない。
「だからなんだと言うのだ」
返した声は短い。
興味の有無でも、拒絶でもない。ただ事実だけを置いた。
「幸せ、ってことです」
「あぁ、お前はそうだろうな。命をかける相手がいる」
デイジィは小さく笑った。
「まぁ、ここにはいなくなっちゃいましたけど」
軽い冗談のようでいて、その先へは続かない。
「もう一度、戻れたら……なんて、考えてしまいます」
「俺に止める権利はないが、協力する謂れもない」
「興味もないですもんね」
「……」
「私、遠い未来より、今愛されたいんです」
テーブルに添えられた花が香りを主張する。
扉の外も、窓の外も、この沈黙へ意味を与えない。
ただ時間だけが過ぎていく。
「あの方が、変わった、とでも思っているんですか?」
「変わっただろう」
問いに、アレックスは迷わない。
デイジィは首を傾げる。
「変わったのは、私が動いたから。エリザベート様が変わってくださったから」
ぽつり、と零れた声。
「エーリカ様は、何も変わっていないわ」
アレックスは否定を返さない。
返せなかった、ではなく、必要がなかったから。
「人を信じることも。疑うことも苦手で」
「……」
「傷つく前に諦めて。大切なものを選ぶことから逃げる」
「――知っている」
そう、知っている。誰よりも。
低く落ちた声に、デイジィが顔を上げる。
「それが、エーリカだ」
責めるつもりはなかった。
失望も、呆れも、そんなものはとうに通り過ぎている。
「変わっていようが、いまいが、関係ない」
「牢に居ようが、自分を一番に選び続けようが?」
「関係ないな。俺は構わん」
「やっぱり、愚か者です」
窓の外で鳥が鳴いた。
遠く、ここではない場所の音だった。
否定はしない。
「あなたは、怖いでのしょう?知られることが。怯えて、背負って、隠して生きてくださいね。――私の分まで」
デイジィの言葉は穏やかだった。
それでも、鋭く砥がれている。
「知られなければ、ずっと愛されたままでいられますよ」
「貴様――」
喉元に、刃を突き付けられた気分になった。
王子として、取り繕う前の声が出た。
自分の内側が乱れ、錯綜始める。
◇◇◇◇
(……ほら、やっぱり。あなたも)
デイジィは伏せた睫毛の奥で、小さく息を吐く。
今日の自分は、ひどく機嫌が悪い。
王子が隠しているものも、抱え込んでいるものも。
そんなもの、本当はどうでもよかった。
ただ、感情が止まらなかった。
――『失礼いたしますわ』
扉の向こうで、控えめな音がした。
柔らかな声だった。
張りつめていたものを壊すでもなく、知らずに踏み込んでくる。
差し出した手は、取られるのが当然と、そんな顔して。
苛立ちがとめどなく溢れ、積み上がっていく。
――『――ね、デイジィ様?』
――『ね?』
別の時間から響いた、愛しい人の声と、不意に重なる。
自分の癖になるほど、昔何度も聞いた呼びかけ。
懐かしさと呼ぶには鮮明すぎる。
時間を越えて重なったその響きは、デイジィ以外には届かぬまま消えていった。
それは拒絶だったのか、諦めだったのか。
あるいは、もっと別の何かだったのか。
答えはいらない。
――『一緒に帰宅できるようお仕事頑張ってますわ。』
屈託なく紡がれる現在形。
帰る場所がある人間の声音。
疑いもなく口にできる日常。
(ねぇ、それは――私のものだったのよ……)




