告話:夜空
――感情に飲まれてしまった。
失態だった。
隠していたものが、剥き出しになった。
部屋を出て向かう場所に、足取りは重い。
叩かれた頬よりも、痛みを持つ心臓が憎い。
バルコニーへ出ると、夜気が肌を包む。
賑やかな音楽も、人の笑い声も、扉一枚隔てただけでひどく遠い。
手すりを越えた足下には、闇に沈む庭園が広がっていた。
見下ろした木々は思ったより小さい。
(……高い)
未練がましく手すりを掴んだ指先に、無意識に力が入る。
震えている。
自分でも分かるほどに。
(でも、この高さなら……)
言葉にできない想いが、霧氷のように凍てついた。
怖い。
怖くないはずがない。
終わらせたいわけじゃなかった。
(ただ――ただ、もう一度……)
「デイジィ……?」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
この声を聞き間違えることなんて、一度もなかった。
「……何をしているんだ。そこは危ない、こっちへ――」
困ったような声音だった。
叱るでもなく、問い詰めるでもなく。
ただ心配している、この人は、そういう人だ。
だから、好きだった。
ゆっくり振り返れば、数歩後に立つルーカスと目が合う。
青い瞳が揺れている。
戸惑いと焦り。
「皆、心配している。戻ろう」
――皆。
その言葉に、小さく笑ってしまった。
「……皆って、誰?」
「何?」
「そこに、貴方は、いる?」
意味が分からない、と顔に書いてある。
あぁ。そう。
やっぱり、この人は気づいていない。
「……ねぇ」
喉が掠れる。
「貴方は今、幸せ?」
予想もしなかった問いだったのか、ルーカスが目を瞬く。
「……なんだ、急に」
「エーリカ様といる時の貴方、昔と少し違うもの」
ほんの僅かに、ルーカスの表情が迷った気がした。
「……婚約者、なんでしょう?」
ルーカスの眉がわずかに寄る。
沈黙のあと、ルーカスが視線を逸らした。
「……それは、お前が思うような、ものじゃない」
「違うの?」
「……」
そこで言葉が止まる。
続きはない。
けれど十分だった。
あの時、濡れたエーリカを見つけた瞬間、顔色を変えた貴方も。
困ったように笑う顔も、守ろうとする時の声も。
迷わず彼女へ手を伸ばした優しい手も。
本人だけが、それを知らない。
凍った想いが、粉々に砕け散る。
ようやく整理できた。
(この人はもう、私が会いたかったルーカスじゃない)
この人はこれから先も、きっと誰かを守る。
エーリカを。
子供を。
家族を。
当たり前みたいに手を伸ばして、当たり前みたいに愛すのだろう。
優しいから。
誰にでも。
平等なくらい。
そんなところが好きだった。
でも欲しかったのは、そんな優しさじゃない。
「……アハハ」
笑いが零れた。
乾いていて、自分でも驚くような声だった。
「よく、分かったわ」
「何がだ?」
本当に分からないという顔をする。
そんな顔を見てしまえば、泣きたくなるほど懐かしかった。
ぐっと息を吸う。
肺が冷える。
頭だけが冴えていく。
「やっぱり……もう、この世界の貴方はいらないわ」
ルーカスの表情が止まった。
「……は?」
その声が落ちるより先に、震える指はルーカスの襟元を掴んでいた。
驚いたように揺れる青い瞳。
昔より少し硬くなった輪郭も、戸惑う時に寄る眉も、全部知っている。
唇が触れた。
愛を伝えるためじゃない。
引き留めるためでもない。
ただ終わりを告げるような口づけだった。
次の瞬間、肩へ強い力がかかる。
拒絶というより反射だ。
分かっていた。
この人なら、きっとそうする、と。
身体が傾く。
不安定な手すりの外。
一度経験していても、怖かった。
視界が反転する。
夜空と灯りが滲んで、自然と零れた涙が宙へ散っていった。
「――っ、デイジィ!」
切羽詰まった声が聞こえる。
伸ばされた手が見えた。
(何度も、返して欲しいと、願ていたのに……)
けれど。
欲しかったのは、それの手じゃない。
貴方がいないなら――
もう一度、会いに行けばいい。
(……待っていてね)
唇だけが、ゆっくり笑う。
(今、迎えにいってあげる――)
夜空が遠ざかった。
◇◇◇◇
緑色した魔法光に、網膜が眩む。
閃光の中、木が喧しく折れる音がした。
一拍遅れて、鈍い音。
何が起きたのか分からなかった。
理解を理性が拒む。
「……デイジィ?」
名を呼ぶ。返事はない。
身を乗り出し、覗いた視界の先。
暗闇でもなお輝く青。
散った花弁のような赤。
動いた拍子に、腰の短剣が小さく鳴った。
デイジィに触れた左手が、燃えるように熱かった。




