エピローグ
――馬車の中で交わした言葉は、どこにも残らない。
扉が開いたとき、外の光は変わらずそこにあった。
エーリカは、一歩を踏み出す。
誰を見るでもなく、ただ前を向いて。
なにも、振り返らない。
――それが、自分の選択だった。
それから、幾度か季節が巡った。
数年たっても王都は変わらず賑わい、日々は静かに積み重なる。
人の関係も、立場も、少しずつ形を変えていった。
あれから、エーリカはデイジィの軌跡を辿った。
その行動ひとつひとつが、エリザベートとの仲も、城の使用人たちからの信頼も、未来の王弟妃の立場も、決して揺るがない強固なものにした。
なにも難しいことはなかった。
デイジィの足跡を追う度、エーリカに懺悔の雨が降り注ぐ。
それでも、エーリカの視界には、最初の時と変わらない幸せだけが映っていた。
空は高く、雲ひとつないそんな日に、その名が過去になった。
あの日と同じように。
エーリカも黒衣に身を包み、馬車に揺られていた。
「シシィも、連れてきた方が良かったかしら」
「エリザベート様にご縁ありましたっけ。貿易関係はアレックス様だけでは?」
「あぁ……そうね、なかったわね。――今は」
サラサの疑問に、黒いベールの奥で、エーリカは目を伏せた。
窓の外から流れる景色は、いつもと変わらなかった。
世界は何事もなく続いている。
教会に着くと、エーリカはいつもより慎重に身体を動かし、馬車を降りようとした。
その前に、待ち構えていたかのような手が伸びる。
アレックスは何も言わず、当たり前のようにエーリカを支えた。
教会の中に一歩足を踏み入れると、そこには悲しみが降り積もっている。
正面に鎮座する質素な祭壇は、厳かな悲嘆に不釣り合いな、輝く青のリボンで彩られていた。
棺の横に、ルーカスが立っている。
その目は青く澄み渡っているのに、悲しみの赤を帯びていた。
その大きな腕に抱かれた赤子は眠っている。
『まだお若かったのに』
『ルーカス様もお可哀想に』
『あんなに小さな子を残して』
漏れ聞こえる声は、エーリカの心さえも重くする。
席について祈りをささげる。
あとに残ったのは、重く沈んだ空気と、淡い青。
順に花が手向けられていく中で、エーリカもまた前へ出た。
近くで見るそれは、やけに鮮やかで。
あの夜と、同じ顔だった。
触れることはせず、ただ一度だけ視線を落とす。
それだけで十分だと、踵を返す。
そのとき。
かすかな衣擦れと、小さな息遣いが耳に触れた。
ルーカスの腕の中で、子供が、身じろいでいる。
ふと、開いた瞼。
小さな青い瞳が、こちらを捉える。
ただ、それだけ。
なのに、なぜか、目を逸らせなかった。
小さな手が、宙に伸びる。
一歩だけ、ほんのわずかに、足が止まりかけ。
けれど。
ルーカスの腕が静かに動いて、子供を抱き直す。
それだけの、何でもない仕草。
伸ばされた小さな手は、何も掴めないまま、引き寄せられていく。
ほんのわずかに、生まれかけた何かがあった。
けれど、名前を持たぬまま過ぎ去った。
気が付けば、空を迷っていたその手は、父の衣を掴んでいた。
その小さな指に応えるように、ルーカスの腕がわずかに力を込める。
子へ向ける眼差しは穏やかなはずなのに――エーリカが知っていた頃の、あの豊かな表情だけが、どこにも見当たらなかった。
背後で、足音がひとつ重なる。
「……エーリカ」
低く落ちる声。
振り向くと、アレックスがすぐ傍にいた。
変わらない距離。
変わらない表情。
ただ、差し出された手が、いつもより僅かに低い。
一瞬だけ、ルーカスの視線が、その手へ落ちる。
ほんのわずかに、目が細められた。
何を悟ったのか。
何を諦めたのか。
その表情は、もう読み取れない。
わずかに息を整え、エーリカは差し出されたアレックスの、その手を取る。
迷いなく重ねられた指先は、昔よりずっと自然だった。
支えられるように、一歩。
そのまま歩き出す。
人の流れは、外へと向かっていた。
振り返ることはない。
必要が、なかった。
あの年、本来なら失われていたはずの命が、今も続いている。
あの日、誰より強く“生き直し”を望んだ人だけが、ここにはいない。
墓前に残された淡い青が、風に揺れる。
あの人が望んだ未来の中に、きっと自分の死はなかっただろう。
それでも、残されたものは生きていく。
誰かが願った“これから”の上を、季節は何事もなかったように過ぎていく。
――あの日と、同じように。空は高く、雲ひとつない。
それでも、同じ空の下。
――完




