38:近景
外気は冷たいはずなのに、ルーカスの掌にはじっとりと汗が滲んでいた。
エーリカとデイジィの乗る馬車は、静まり返っている。
外からでは中の様子は一切うかがえない。
防音の術も施されているのだろう、声ひとつ漏れてこない。
足元がそわそわと落ち着かない。
だが視線だけは、扉に縫い留められたままだった。
「……いい加減、落ち着いたらどうだ」
隣で、アレックスが淡々と告げる。
「しかし……王子は、気にならないんですか」
「気になる」
あっさりと認める。
だが、それ以上の感情は乗せない。
「だが、俺が口を出すことじゃない」
「……従うだけ、ですか」
「ああ」
短く。
それで終わらせる。
ルーカスは、わずかに眉を寄せた。
「どうして、そこまで……」
「以前、言ったはずだ」
視線は、馬車に向けられたまま。
「俺は、あいつを取り戻すと決めている」
「エーリカ様のことは、もう聞いています」
ルーカスは、少しだけ声を落とす。
「でも……俺やデイジィにまで、ここまでして頂く、理由にはならないでしょう」
「あぁ、そちらか。――デイジィ嬢との契約だ」
「契約?」
ルーカスの眉がピクリと反応する。
「時戻しの術は、王家の血を引く者では発動できない」
アレックスは前だけを向いて話す。
「だから、同行させてくれる発動者が必要だったんだ。魔力の提供と、デイジィ嬢が守りたいもの、その全てに便宜を図る――対価としては妥当だろう」
まるで、政務の一環のように、感情を切り離した言い方だった。
ルーカスは不正や贔屓を嫌い、公平平等に振舞っていたアレックスの姿を思い出す。
「……あなたが、そういうことをするとは思いませんでした」
「手段を問わないだけだ」
ほんの一瞬だけ、声音が低くなる。
「取り戻せるなら、それでいい」
遠く、衛兵の交代を告げる鐘が鳴った。
朝露に濡れていた石畳は、行き交う人々に踏まれ、その跡を失っていた。
「……今日、俺は騎士じゃなくてよかった」
ぽつりと、こぼす。
「騎士なら、今の発言は見過ごせませんから」
「友人なら?」
「咎める必要もないですね」
少しだけ大仰に、肩をすくめる。
「きっとその“守りたい者”の中に、俺――以前の俺が、含まれていたのでしょう?」
アレックスが小さく頷き、無言で肯定する。
「――それと、俺個人からの謝礼だな」
風が、かすかに馬車の旗を揺らした。
窓にかかるカーテンの隙間から、ほんの一瞬だけ、内部に刻まれた魔法陣の光が、淡く覗く。
「謝礼、ですか?」
ルーカスの視線が、一瞬だけ迷いを灯す。
それ以上、踏み込みあぐねている。
「……お前は、デイジィ嬢と、何を話した?」
アレックスが、唐突な言葉を呟く。
「なんです、急に」
「いいから答えろ」
やや強い口調。
それでも、命令ではない。
「…………別に、大したことは」
「そうか」
遮る。
聞く気がないのか、あるいは。
答えを決めているのか。
「お前は、あちらを選んだ。そう思っていいんだな?」
ルーカスは、一瞬だけ目を伏せる。
それから。
「――はい」
短く、答えた。
「本人が拒んでいるのにか」
「……痛いところを突きますね」
苦笑する。
けれど、その奥は乾いている。
「事実だ」
「ええ、事実です」
あっさりと認める。
「でも、たとえ、最後まで拒まれても――俺は、デイジィの傍にいます」
はっきりと、言い切る。
アレックスは、何も言わない。
「――あぁ、だから、謝礼なんですね」
ルーカスがふと、気が付き、軽く笑う。
「すまんな。お前と、争うようなことはしたくないからな」
「謝られることじゃないですよ」
ちらりと、馬車を見る。
「俺たちの気持ちなんて……あの中の決定の前じゃ、どうせ無力です」
自嘲気味に。
それでも、目は逸らさない。
二人で、同じ方向を見る。
閉ざされた扉。
何も聞こえない、静寂。
それでも、そこにあるものだけが、総てだったから。




