37:輪廻
デイジィの言葉は、他の誰よりも、エーリカに絶望を届けた。
「わた、私は……助けてもらえて、本当に感謝しています……」
「じゃあどうして、あなたはまた、私から奪ったんですか?」
「……私は、奪ってなんか――」
「あぁ、別に責めてるんじゃないですよ。――知って欲しいんです」
エーリカの言い訳も謝罪も、デイジィの前では存在できない。
「知らないって、一番厄介で、可哀想でしょ」
穏やかな声音だった。
怒鳴っているわけでもない。
それなのに、逃げ場がなかった。
デイジィは、エーリカが言葉を探していることすら、待ってはくれない。
「ねぇ、エーリカ様――あなたは、“何もしなかった結果”でも、“ご自身の選択”でも、私から奪っているんです」
自分の犯した罪を受け入れたからこそ、エーリカの足は震えた。
それでも、この静かで緩やかな断罪は、まだ終わらない。
デイジィが一度、静かに目を伏せた。
肩へ落ちた髪が流れ、その細い輪郭を際立たせる。
その仕草だけ見れば、どこにでもいる病弱な令嬢のようだった。
けれど、次にエーリカに向けられた視線は、ただただ、冷たかった。
「あなたの存在が、私の不幸なんです」
呼吸が乱れ、エーリカは息をうまく吸えないでいる。
「この結果は、まぎれもない事実です……それでもまだ、“自分は悪くない”って顔をすんですか?」
唇が震えるのを、必死で咬み殺す。
エーリカは、ゆっくりと息を吐いた。
「……あなたの言っていることは、全部が間違いだとは、言いません……」
反論しようとして、言葉が止まる。
喉の奥に引っかかったまま、形にならない。
――違う、と。
そう言いたいはずなのに。
デイジィの言葉を否定しきれない自分が、確かにいた。
「…………私は、何も、知ろうとはしなかった――見ようともしなかった」
指先が震える。
それでも、今度は握り潰さない。
「――ただ、流れに身を任せ、漂っているのを、動いていると勘違いしていました……」
エーリカは、無意識に口から洩れる言葉を紡ぐ。
「……だから、何もしていない……でも――」
エーリカが、少しだけ顔を上げる。
「それが全部だとは、思いません」
はっきりと、言葉にする。
デイジィの瞳が、細くなる。
「――私は確かに、何もしていなかった。だから、結果を招いた」
「……ええ。でも――」
エーリカは、一歩だけ、踏み出した。
「だからといって、“これからも何もしない”とは、決めていません」
空気が、わずかに乱れる。
デイジィの表情が、初めて止まった。
「あなたは、全部防げたと言った」
「事実よ」
「……そうですね。きっと、本当にそうなんでしょう」
素直に頷く。
否定しない。
その代わりに。
「なら、なおさらです」
声に、芯が通る。
怖れが消えたわけではない。
罪悪感も、まだ胸の奥に残っている。
それでも“だから終わり”には、したくなかった。
「あなたは、過去をやり直した」
「……ええ」
「“これから”も、変えられるはずです」
デイジィの瞳の奥で、何かが揺れた。
ほんの一瞬――すぐに消えた。
エーリカは、気が付かない。
「“あの人”は、今、そこにいます――」
扉を指さし、外を示す。
「でもあなたは、“違う”と言う」
「違うものは違うわ。私が知っているルーカスは、あんな顔で他の女を見たりしないもの」
淡々とした言葉。
けれど、その奥にあるものは重い。
「……ならば、これから、そうなる可能性も、否定なさるんですか?」
デイジィの唇が、薄く噛み締められる。
「人は、変わります。あなたが変えたように。私が、変わろうとしているように」
エーリカは逃げずに、重ねる。
「ルーカスだって、変わるかもしれない」
「……」
「今は違っても、これから先で」
そこで。
デイジィが、笑った。
小さく。
けれど、はっきりと。
「――随分と、都合のいい話ですね」
デイジィの、柔らかで、それでいて突き刺すような声。
「“これから変わるかもしれない”?」
その言葉をなぞるように、繰り返す。
「そんな不確かなものに、何を賭けると言うのです?」
「……希望、です」
言葉にした瞬間、ひどく薄いものを差し出した気がした。
それでも、引っ込めることはしない。
デイジィは、しばらく何も言わなかった。
ただ、エーリカを見ている。
値踏みするでもなく、試すでもなく。
――確認するように。
「……希望、ね」
馬車の外から、遠く人々の声が聞こえる。
朝市の喧騒。
誰かの笑い声。
そのどれもが、この空間だけには届かないようだった。
「それで、何を変えるおつもり?あなたは、“変わる”とおっしゃったけれど、何が、どう変わるのでしょう?」
静かな、何気ない問い。
けれど、空気が変わる。
主導権が、エーリカの手から離れたのがわかった。
「それは……」
言葉が詰まる。
漠然としていたものを、形にしようとして。
初めて、自分がどれだけ曖昧なことを言ったのかを知る。
デイジィは、それを見逃さない。
「ルーカスが、私を見るようになる?」
「……それは」
「それとも、また、あなたが選ぶの?」
畳みかけるでもない。
ただ、選択肢として並べる。
そのどれもが、逃げ道を塞ぐ。
「どれも、違うと、思います」
ようやく、絞り出す。
「私は、そういうことを言っているんじゃ……」
「じゃあ、何?」
間髪入れずに返る。
柔らかい眼差しののまま。
それが余計に、逃げ場をなくす。
エーリカは、言葉を探す。
けれど――見つからない。
「……ほら」
デイジィが小さく、息を吐く音。
「あなたの言う“これから”なんて、その程度のものよ」
断じる。
強くではない。ただ、事実のように。
「形もない。保証もない。誰も知りえない」
視線が、わずかに細くなる。
「そんなものに、何を託すの?」
「……っ」
反論が、出てこない。
正しいかどうかではなく。
“言葉にできない”ことは、弱さだった。
デイジィは、それを知っている。
「エーリカ様、私はね、そんな曖昧なものに、縋る気はないんです」
デイジィの指先が、ゆっくりとシーツの上をなぞる。
白い布の上に、細い指が沈む。
「だから、私は、取りに来たのですよ」
視線が、まっすぐに戻る。
一切の揺らぎがない。
けれど――どこか、余白がない。
「過去だろうと、時間だろうと――」
ほんのわずかに、間が空く。
「――何を、失おうとね」
その一言だけ、ほんの少しだけ軽く落ちた。
けれど。
その軽さが、逆に引っかかる。
「……」
エーリカは、何も言えない。
言ってはいけない気がした。
今の言葉の“何か”を、まだ掴めていない。
「あなたは違いますね。だって、あなたは、持っている側ですものね」
責めるでもなく、羨むでもなく。
ただ、切り分ける。
「だから、“これから”なんて言えるのよ」
その声音には、僅かな温度もない。
事実の確認。
それだけ。
「でも私は、今、欲しいの」
デイジィのめが、一層の熱を持って穏やかに細められる。
「――それ以外、いらないんです」
はっきりとした拒絶。
もう何も語らない。もう語らせない。
そこには、線があった。
「……そう、ですか」
それ以上、踏み込めない。
踏み込めば、壊れる気がした。
何がとは分からない。
けれど。
ここは、これ以上触れてはいけない場所だと、本能が告げている。
沈黙が落ちる。
今度は、エーリカの側が言葉を持たない。
デイジィは、それを静かに受け止める。
「――満足したわ」
やがて、ぽつりと。
「あなたが、どう変わったのか。よく、分かりました。だから――もう、いいです」
その一言は、評価にも似て、切り捨てにも似ていた。
「行ってちょうだい、エーリカ様」
デイジィは穏やか告げる。
「あなたには、あなたの“これから”があるのでしょう」
デイジィが言葉を閉じる。
――返せない。
何かを言うべきなのに、エーリカは言葉が、なかった。
「……はい」
結局、それだけを返す。
踵を返す。
一歩、踏み出す。
背中に、視線を感じる。
強くも、弱くもない。
ただ、確かにそこにある。
後ろで、かすかに衣擦れの音がした。
ほんの一瞬。
背後で、浅く息を呑むような音がした。
振り返ることは、しない。してはいけない。そんな気がした。
外に出ると、冷たい空気が、肺を満たす。
扉が閉まる。
それで、完全に遮断される。
中にいた“彼女”ごと。




