36:断罪
――数日後。
王都の外れにある門前は、朝の冷たい空気に包まれていた。
遠くで朝市が建ち、人々の賑やかな音が、エーリカの耳にも微かに届いている。
空は青いキャンバスのようで、白い雲が自由に遊んでいる。
エーリカの胸の奥だけが、曇天のように重い。
石畳の上に並ぶのは、数台の馬車と、最小限の従者。
ひどく静かな出立だった。
その中でひときわ目を引くのは、ひとつの馬車。
王家の紋章が控えめに刻まれたそれは、外見こそ簡素だが、明らかに作りが違う。
揺れを抑えるための厚い車輪、広く取られた車体――長旅に耐える仕様。
中には、寝台が据えられていると聞いている。
エーリカは、無意識に指先を握りしめた。
(……本当に、行ってしまうのね)
現実が、遅れて胸に落ちる。
少し離れた場所で、アレックスとルーカスが言葉を交わしている。
ルーカスの横顔は、笑っていない。
前髪の隙間から見えた瞳に、光はなかった。
反射的に、エーリカは視線を逸らした。
胸が、ひりつく。
「エーリカ様」
不意に、声をかけられる。
振り向くと、馬車の傍に控えていたメイドが一歩進み出ていた。
「デイジィ様が、お話をされたいと」
一瞬、息が詰まる。
逃げ場はない。
けれど、拒む理由もなかった。
「……分かりました」
声が、思ったよりも静かに出た。
足を進めると、一歩ごとに、石畳の音がやけに大きく響く。
アレックスとルーカスが揃ってこちらを注視しているのがわかったが、それに気づかぬふりをする。
馬車の扉の前で、わずかに足が止まった。
ざわめきはが背中を這いまわる。
それでも、ノックをひとつ。
「――エーリカです」
「どうぞ」
すぐに返る声。
変わらない、穏やかな響き。
それが逆に、喉を詰まらせる。
扉を開けると、柔らかな布の匂いと、かすかな薬の香りが混じった空気が流れ出た。
中は広く、簡素だが整えられている。
その中央――寝台の上に、デイジィはいた。
背を預けるようにして座っているが、その身体はやはり細い。
けれど顔だけは、いつも通りに微笑んでいた。
「来てくださったのね、エーリカ様」
その一言に、なぜか逃げ場がなくなる。
扉が、後ろで静かに閉じた。
外の音が、遠ざかる。
――ふたりきり。
エーリカの心臓が、ひとつ、大きく鳴った。
「――あなたは結局、王子を選んだんですね」
扉の外では、人の気配が微かに動いている。
逃げ場のない沈黙に、足元が固まる。
デイジィの声音は穏やかなのに、その一言一言は妙に鋭かった。
柔らかい布で、ゆっくり首を絞められているような感覚。
反論しようとしても、言葉が絡まる。
「私は、まだ……」
「まだ?じゃあルーカスを選ぶんですか?」
「ルーカスは、貴女ととともに行くじゃありませんか」
「迷惑ですけどね」
冗談めいた口調だった。
けれど、そこに笑いはない。
デイジィは窓辺から差し込む朝の光を受けながら、どこか遠くを見るような目をしていた。
その横顔は穏やかなのに、エーリカには妙に冷たく見える。
「迷惑だなんて――あなた方は、愛する人に会いたくて時間を戻したんですよね?」
「えぇ。愛する人――私を愛してくれたルーカスのために。……あそこにいるルーカスは、貴女を見ているもの。あれは、私のルーカスじゃないわ」
心臓が破裂したかと思えるほど痛い。
「ルーカスは、貴女と行くことを、選んでいます……」
デイジィから小さなため息がひとつ、生まれる。
「あなたが、私からルーカスを奪ったんですよ」
エーリカの喉が鳴る。
否定したかった。
そんなつもりではなかったと叫びたかった。
けれど、“違う”と言い切れるほど、自分が誰かを傷つけていない自信もなかった。
「始めに、あなたがエリザベート様とうまくいっていれば、冤罪自体産まれなかった」
「そんな、ことは……」
そんなこと言われてもエーリカにはどうしようもなかった。
「エリザベート様はまだ幼い子供ですよ。仲良くすることは難しいことじゃなかった。
あのメイドにしても粗が多く、こちらから隙を作らなければ毒を盛るなど不可能だったわ」
「それは、あなたが二度目だから――」
そう反論しても、デイジィの蔑んだ笑みは崩れない。
「私もエリザベート様の信頼を勝ち取る事は初めてでしたよ?」
デイジィのヘーゼルの瞳が細められる。
「なのに、どうしてあなたはしなかったの?機会はいくらでもあったでしょう。王女様は、ただ寂しがり屋なだけだもの。少し寄り添えば、いくらでも懐いたはずよ」
「私は……その……」
「怖かった?」
即座に刺された。
内の奥に隠していたものを、迷いなく抉り出された気分になる。
「失敗するのが?嫌われるのが?それとも――自分から歩み寄ること自体が、面倒だったのかしら」
デイジィの口元が、わずかに歪む。
「違います……!」
エーリカは思わず声をあげた。
だが、それはただの、逃避のための言葉だった。
デイジィは、小さく首を振る。
「……そうやって、いつも“違います”で終わらせるのね」
呆れとも、失望ともつかない声音。
「ねぇ、エーリカ様。覚えていらっしゃる?」
「……なにを、ですか」
「あの牢獄での事を――」
エーリカの呼吸が乱れ、もう動揺を隠せなくなっていた。
「あの時あなたは、最後まで――処刑台の上ですら、“なぜこうなったのか分からない”って顔をしていたわ」
逃げ場がない。
牢獄の冷たい床。
首筋に触れた刃の気配。
遠巻きに向けられていた視線。
記憶が色を、音を、痛みを取り戻す。
エーリカの額に嫌な汗が滲んだ。
「……違いますか?」
唇をきゅっと結び、エーリカは否定できないでいる。
「私はね、悔しかったの」
デイジィから、わずかに感情が滲む。
「どうしてあなたは、何も知らないまま死のうとしているのって、私のルーカスを巻き込んでいるくせに。ってね」
デイジィのその声は小さいけれど、エーリカに降り注ぐそれはなによりも重かった。
「自分が何をしたのかも、何をしなかったのかも、理解しないまま――ただ、被害者の顔をして嘆くだけなんて……許せなかった」
「……っ!」
エーリカは喉が潰された様に、もう何も言葉にできない。
「私は……私たちは調べたのよ。あなたの周りも、全部」
静かに、告げる。
「誰が、どこで、何をしていたのか。どこに隙があったのか。何が引き金になったのか」
「それで……」
「ええ。分かったわ」
デイジィはさらりと答える。
「全部、防げた」
その断言は、あまりにも静かだった。
だからこそ、残酷だった。
もし怒鳴られていたなら、もし感情的に責められていたなら。
エーリカも傷ついた顔くらいできたかもしれない。
感情に任せた糾弾なら、こちらも感情で押し返せたかもしれない。
けれどデイジィは、事実を確認するような静けさで、エーリカの弱さを並べていく。
「少しだけ視点を変えれば。少しだけ先を読めば。もう少しだけ、他人を見ていれば――」
デイジィが小さい子を諭すように、指を折り罪を数えるように、ひとつずつ積み上げる。
「あなたは、あんな風に死ななくて済んだの」
静かな声なのに、冷たく痛い――そう思えて、エーリカの指先は、震えた。
「……だから、助けたんです。貴女が、可哀想だったから」
ぽつりと落とされる。
その言葉に、エーリカの眉が寄る。
「何も知らないまま終わるなんて、あまりにも無意味だったから」
視線が、真っ直ぐに突き刺さる。
「でも――」
デイジィは、微かに笑う。
「結局こうなった。――私も、選択を間違えたんです」
はっと気が付いたエーリカが息を呑む。
その先は、聞きたくなかった。
「あなたを、助けるんじゃなかった」
呼吸音さえ、消えた気がした。
遠くでは朝市の喧騒が続いているはずなのに、ここには何も届かない。
――許されたかったわけではない。
けれど、 エーリカを支え“何かが”、崩れていく音がした。




