35:齟齬
静寂が落ちた。
重たい沈黙だけが馬車の中を満たしていく。
耐えきれなくなったように、エーリカは小さく息を吐いた。
「……随分と、潔いな」
不意に落ちたアレックスの声に、エーリカの肩が揺れる。
エーリカは視線を伏せたまま、指先をそっと握り込んだ。
「……最善を選んだだけです」
「本当に?」
即座に返った声に、エーリカの頬が僅かに強張った。
あまりにも自然で、逃がす気のない間だった。
エーリカの喉が、かすかに動く。
「はい」
エーリカの短い返答のあと、もう一度訪れた沈黙が、その言葉の薄さを際立たせていた。
アレックスは否定しない。
ただ、エーリカを見ている。
「……エーリカ」
名を呼ばれた瞬間、エーリカの心臓は大きく脈打った。
その響きは、どこか懐かしく、甘い。
かつて婚約者だった頃の記憶――まだエーリカがすべてを失う前の時間へ、無理やり引き戻されるようだった。
緑の双眸は、エーリカを逃さない。
「まだ、お前のことを聞けていない」
「私のこと、でございますか……」
「お前は、一度俺の手を離れた。……そう思えば、次にはルーカスの手を取っていた」
淡々とした口調に責める響きはない。
だからこそ、事実だけを並べた言葉が重い。
アレックスが少しだけ姿勢を緩める。
「だが、その手を、お前は今、自分で放した」
低い声が、静かに落ちてくる。
逃げ場など最初から存在しないかのように。
「いったい、何を……おっしゃりたいのですか」
エーリカの声は、自分でも分かるほど不安定だった。
選んだはずなのに、決めたはずなのに、まだ痛いほど残っているのを、見透かされているようだった。
アレックスは、その動揺ごと見透かすように、口を開く。
「――俺はもう、同じことはしない」
緑の瞳は逸れない。
「もう、お前を手放すつもりはない」
場違いなほど、穏やかな声だった。
怒りも、執着を露わにする熱もない。
それなのに、その言葉だけでエーリカの逃げ道は塞がれていく。
「お前は、この先、どうしたい」
問いかけは続く。
「ここに残ったあと、お前自身が、どう生きたいのか――俺はまだ、その答えを聞いていない」
「私は……みんなが、幸せに、なれれば――」
そう口にした瞬間だった。
「それは、答えになっていない」
涼やかな声が、言葉を断ち切る。
「それは、“誰も選ばないため”の言葉だ」
だからこそ、深く刺さる。
エーリカは、すぐには言葉を返せなかった。
考えあぐねているエーリカに、ふと、違和感が降りてくる。
(……この方は、ご自身のことだけ、何も仰っていないわ)
エーリカのまつ毛が、わずかに動く。
「王子は……アレックス様は、どうなさるおつもりなのですか?」
声に出して、初めて形になった。
「責任は取る」
短い答え。
だが、それは先ほど聞いたものと同じだ。
エーリカは、ゆっくり首を振る。
「それは、伺いました」
見据えた視線は逸らさない。
「そうではなく……ご自身が、これからどう在りたいのかを、お聞きしています」
エーリカの気持ちが一歩、踏み込んだ。
自分でも分かるほどに、少しだけ呼吸が早くなる。
アレックスは、しばらく何も言わなかった。
沈黙――だがそれは、言葉を選んでいる間だった。
「……お前に、選んでもらえるように動くだけだ」
あまりにも飾り気のない言葉だった。
エーリカの呼吸が、一瞬だけ止まる。
「待つつもりはない。だが、強制もしない」
落ち着いた声音のまま、言葉だけがまっすぐエーリカへ届く。
「お前が選ぶ、その結果に――俺が入っているように」
エーリカは胸から込み上げる感情に、内側から圧倒される。
アレックスは、さらに続ける。
「だから聞いている」
緑の瞳に熱が帯びる。
「お前は、どうしたい」
エーリカは睫毛を伏せる。
「……私は……」
言葉が、続かない。整理が、追いつかない。
それでも、絞り出さなければいけない。
「……少しだけ、時間をいただけますか」
やっとのことで紡げた言葉は、かすかに震えていた。
アレックスは、しばらくエーリカを見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「構わない」
短く、それだけ。
けれどそこには、急かす色も、失望もなかった。
エーリカは小さく息を吐き、頷く。
消えきれず、名もつかないまま燻り続けるものが、塊になっていく。




