34:迷路
エーリカはルーカスに、なにも言えなかった。
(デイジィ様は、私が選ぶ側だと思っているようだけど、私は――)
選び取る側の恐怖が、エーリカから言葉を奪い取っていた。
「……っ」
小さく息を呑む音。
顔を上げると、デイジィが胸元を押さえていた。
呼吸が浅く、細い肩が、かすかに上下している。
「おいっ、大丈夫か?!」
ルーカスの声音が変わる。
ためらいなく傍へ寄り、その身体を支えた。
「……少し、疲れただけよ。ちょっと、休ませてもらっても……?」
「も、もちろんですわ。まずは、体調を治してくださいませ」
エーリカは反射的に答えていた。
「……今日の所はここまでだ」
命令というより、終わりを決める声だった。
誰も異論を挟まない。
張り詰めていた空気が、一気に現実へ引き戻される。
エーリカは部屋を出かけて――ふと、振り返った。
寝台に横たわるデイジィと、その傍らから離れないルーカス。
苦しげな呼吸だけが、エーリカの耳に届いた。
屋敷の玄関ホールは、先ほどまでの空気が嘘のように静かだった。
「まだ、聞きたいことがあるのだろう?こちらの馬車で送ろう」
アレックスが口を開く。
「……すべて、お話しいただけますか?」
エーリカの問いかける声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「あぁ、約束しよう」
「では、行きますわ」
その返答に、エーリカは小さく目を伏せる。
「――俺も行きます」
低い声が響き、そちらを見れば、ルーカスがこちらへ歩いてくるところだった。
「まだ、話があるので」
表情はいつも通りだった。
けれど、その目に僅かな疲れが見えた。
◇◇◇◇
馬車内にて。
王家の馬車は最上級の魔法により、普通の部屋と遜色ない広さと快適さであった。が、その空気は張り詰めている。
どれほど快適に整えられていても、その冷えた静けさは、かえってエーリカの不安を際立たせる。
重い沈黙の中、誰も話を切り出せない。
「それで、なにを知りたい?」
「知りたいことは、たくさんありますわ。……けれど、多すぎてもう破裂しそうです」
アレックスが問いかけ、エーリカは素直に答える。
「……俺たちは過去に戻ってやり直しをしている――で、いいんですよね?」
ルーカスが遠慮がちに呟く。
「あぁ、その認識で間違いない……我々の目的は、デイジィ嬢が言っていた通りだ」
――『愛する人に、もう一度会うために』
そう言っていたデイジィを思い出す。
エーリカはちらりと盗み見たアレックスと視線が合ってしまった。
困ったように眉を和らげたまま、アレックスがほんのわずかに唇の端を緩めた気がした。
――なぜ、今。
場にそぐわないその柔らかさに、エーリカの思考が一瞬だけ止まる。
けれどすぐに、アレックスはいつもの声音に戻っていた。
「我々の身勝手な行動でお前たちを巻き込んだこと、謝罪する」
座ったままではあるが、一国の王子が頭を下げる光景にエーリカは慌てる。
「そんな!頭をお上げください!」
オロオロと戸惑うエーリカの横から、ルーカスが声をかける。
「……」
ルーカスの声を受けても、アレックスは頭をあげようとはしなかった。
「――時間が戻ったことで、あの時、失われたはずの自分たちの命が……今ここにあるのです」
エーリカは言葉を選びながら、ゆっくりと紡ぐ。
「それについて、私は――感謝しています」
それは、本心でもあった。
暗い牢獄から見えた微かな光が、自身の命を奪う鋭い刃の光だった時の絶望が思い出される。
ずっと思い出すことすら苦痛だった記憶は、今のエーリカには“ただの記憶”に過ぎなかった。
エーリカの発言にルーカスが大きく頷く。
やっとアレックスが顔をあげる。
「……感謝されることと、責を負うことは別だ」
低く、抑えた声。
「結果がどうあれ、禁を犯し、他者の人生に干渉した事実は消えない」
ゆっくりと、言い切る。
「ゆえに、謝罪は撤回しない。その上で――」
一拍。
「巻き込んだ以上、最後まで責任を持って関与しよう」
アレックスがルーカスに向き合う。
「デイジィ嬢の療養先は最優先で手配する。ルーカス、お前が着いていくと言うならば、それもこちらで調整しよう」
そして、アレックスの視線がエーリカに向く。
「……お前にもだ」
エーリカの心臓が大きく脈打つ。
「デイジィ嬢は意思を示した。ルーカスも、身の振り方は決めているのだろう」
静かな確認。
「お前は、どうする?」
アレックスがエーリカへ問う。
逃げ場は残されていない。
選べ、と。そう言われている。
エーリカの喉が、わずかに乾く。
「私は――」
「……あのっ」
遮る声。
顔を上げると、ルーカスと目が合った。
青い瞳に迷いはない。
「俺、が……デイジィに着いていくのを、エーリカ……――様に、相談もせず、勝手に決めて、しまって……その――」
ルーカスが言葉を探すように、わずかに詰まる。
――“エーリカ様”。
エーリカは自分で選択することもなく、自分が選ばれることもないこの決定を静かに受け入れた。
「私たちは、今日、会ったばかりです」
先に、口を開いたのはエーリカだった。
自分でも驚くほど、静かな声だった。
ルーカスが、わずかに瞼を揺らす。
それでもエーリカは続ける。
「どうぞ――あなたの思うまま、行動なさるといいわ」
感情を置き去りにしたまま、線を引くようにエーリカは口調を正す。
この感情を飲み込むことには、もう慣れているはずだった。
それでも、エーリカの指先が、見えないところで強く握られる。
ゆっくりと視線を伏せたルーカスは、迷いを断ち切るように、深く頭を下げる。
「……本来なら」
ぽつりと、ルーカスが言葉を落とすと、それに応えてエーリカが顔を上げる。
「――あなたに、釈明しなければいけないんでしょうが」
低く、押し殺した声。
「ですが……今は、それを言葉にできる余裕が、俺にないんです」
ルーカスが眉を寄せ、悔しそうな顔でエーリカを見据える。
エーリカはそんなルーカスの青い瞳を見つめたまま、息を吸い損ねた。
「――――私は、怖くって動けないの……」
つい本音を零してしまったエーリカの肩が小さく跳ね、ストロベリーブロンドの毛先が揺れる。
自分に呆れてしまい、小さく息を吐いた。
(もう、言ってしまったんだもの……いっそ、全部……)
エーリカの決意の様に白い両手は硬く組まている。
「選ぶことが、こんなにも怖いなんて……思わなかった」
エーリカが少しだけ俯くと、その髪がさらりと流れる。
「私は、もう、選ぶ勇気はない。……すでに選んだ貴方を、否定する資格も、ないわ。それに、約束の存在しない“今”だもの。……謝罪も言い訳も、必要ないんですよ」
聞き分けの良い言葉を並べただけの、欺瞞だ――と、エーリカは自身を卑下する。
「……ありがとうございます」
ルーカスが深く頭を下げる。
(私が、巻き込んだのに……。その優しさが、痛いわ……)
邪魔をしない。
それを、エーリカは“選んだ”。
雨音も、車輪の音も聞こえない。
誰も、言葉を継げない。
――気を抜けば、縋ってしまいそう。
その自覚が、かえって身体を強張らせる。
視界の端で、ルーカスがわずかに息を吸った。
だが、その前に。
「……決まったな」
静かに、アレックスが口を開いた。
断じるでもなく、ただ事実を確認する声音。
だが、それだけで場の流れが固定される。
「ルーカスの同行を許可しよう。デイジィ嬢の療養に随伴できるよう、勅令を出す」
選択の整理。
逃げ道を塞ぐようでいて、誰も否定しない形。
エーリカの喉が、かすかに鳴った。
それが、自分の“選択”として確定したのだと、遅れて理解する。
ルーカスが、わずかに顔を上げた。
何かを言おうとした気配。
けれど。
エーリカは、先に口を開いた。
「……それで、構いません」
驚くほど、平坦な声だった。
感情は、追いついていない。
それでも、言葉だけは形になる。
「巻き戻った今、私たちは、今日、初めて会った関係――ですもの」
もう一度、迷いを断つように、言い切る。
ルーカスの指先が、わずかに動く。
だが、伸びることはない。
ただ、拳がゆっくりと握られるだけだった。
「……そう、ですね」
短い肯定。
それ以上は、なにも言わない。
言えないのか、言わないのか――エーリカには分からない。
けれど、その沈黙がすべてを物語っていた。
アレックスが、ふたりを一瞥する。
ほんの一瞬だけ、視線がエーリカに留まった。
何かを確かめるように。
そして、すぐに外される。
「……話は終わりだ」
決裁の声音。
その一言で、場が完全に閉じる。
ルーカスは座ったまま深く一礼した。
形式に則った、隙のない動作。
けれどその背は、わずかに強張っている。
いつの間にか馬車が停車しており、アレックスが扉を軽くノックする。
すると外から扉が開かれ、エーリカも訪れたことのあるヴィツォレク家の門が見えた。
「――失礼します」
馬車を降りたルーカスがこちらに向かって深い礼をする。
大粒の雨が降り注ぐ中、そのまま、ルーカスが顔を上げることはなかった。
扉が閉まり、雨音も消してしまう。
静寂が戻る。
――取り残されたのは、二人。
そしてエーリカの心中には、行き場を失った熱が、いつまでも燻り続けていた。




