33:喪失
生活魔法で空調の保たれた部屋は快適であるはずなのに、エーリカは息苦しかった。
吸い込んだ空気が肺の奥に澱のように沈み、吐き出してもなお重さだけが残る。
窓の外では、雨粒が硝子を伝い落ちていた。
エーリカは誰の顔も見られず、ただ自分の指先を見つめていた。
ぎこちなく組まれた指先だけが、この場で唯一意識を向けられるものだった。
「一度同行してしまうと、次も付いてくるなんて……面倒なことですね」
沈黙を破ったデイジィが小さくため息を吐いた。
その吐息はどこか諦めに近く、デイジィの表情には、怒りも焦りもない。
ただ、どこか遠くを見ているような静けさがあった。
それがかえって、エーリカにざらりとした不安を残す。
「また、戻るおつもりですか……?」
エーリカが思わず声をかける。
胸の奥がなんだか言い知れぬ警鐘を鳴らしていたから。
だからこそ、聞かずにはいられなかった。
デイジィはにっこり、優雅に微笑んで答えた。
「何度でも、ルーカスに合えるまで。……続ける、はずでした。――でも、強制的に同行者がいて、それにこのルーカスが組み込まれたとなったら、もう――無意味でしょうね」
ルーカスの伏せた睫毛の下で、光が翳ったように見えた。
俯いた先にある感情に、エーリカは辿り着けない。
「……エーリカ様、あなたは勝利できて羨ましいです」
デイジィが一層の笑みを作ってエーリカへ向ける。
「勝利……?私は、なにも勝負などしていませんが」
「私は、もう何をしても、欲しかったものはもう手に入らない。でも貴女は、冤罪を免れただけじゃなく、ルーカスと王子――どちらを選ぶこともできる。良かったですね」
いつもの調子で微笑むデイジィのその言葉に、嘘偽りは見受けられない。
その言葉はあまりにも軽く、残酷に反響する。
だからこそ、エーリカは絶句した。
沈黙が、再び部屋を支配する。
雨音すら、この部屋の沈んだ空気は崩せない。
「……私は、負けてしまいました」
そう言って軽く笑おうとした、その瞬間、デイジィの肩が小さく揺れた。
次いで、抑えきれない咳が、その細い喉から零れ出る。
「――っ……」
デイジィの細い指が隠すように口元を覆う。
喉が震え、咳は一度では収まらず、何度も繰り返された。
呼吸のたび、喉の奥で何かが軋むような音がする。
無理やり肺を動かしているような、その苦しげな異音に、エーリカは背筋が冷えるのを感じた。
「デイジィ……」
まだ咳き込むデイジィに、ルーカスが一歩踏み出す。
「――来ないで」
咳の合間に、デイジィがそれを鋭く制する。
デイジィが息を整えようとするたびに、余計に浅くなっているのがエーリカにも見て取れた。
「医師を――」
「……必要、ありません」
アレックスが廊下で待機している側近に声をかけようとするが、デイジィはそれを止める。
その掠れた声に、室内の緊張がさらに濃くなる。
扉に向かうのを静止されたアレックスが小さく息を吐き、ベッドへと歩み寄った。
「環境を変えた方がいいだろう。このまま王都に置くのは得策ではない。静養できる場所を手配しよう」
アレックスのその言葉には、すでに覆し難い決定の気配が滲んでいた。
デイジィは驚きも抵抗も見せず、ただ薄く笑った。
「……ずいぶんと手回しが早いのですね」
その言葉に、アレックスはわずかに眉をあげる。
咎めるでもなく、弁明するでもない。ただ、否定はしなかった。
「ただの療養だ。表向きも、実際も」
静かでありながらも、緊張が張り巡らされたふたりの会話。
一言でも逃せば、この濁流はエーリカを置いて行ってしまう――そんな確信があった。
訝しむその空気を断ち切るように、ルーカスが口を開く。
「俺も行く」
低く落とされたその声に、迷いは微塵もなかった。
その言葉の意味を理解した瞬間、エーリカの喉の奥が強く引きつり、呼吸が遅れた。
(――行く?誰と?どこへ?)
エーリカの思考は追いついているはずなのに、理解は妙に鈍い。
アレックスがルーカスへ視線を向ける。
「同行を希望する理由は?」
「理由はありません」
ルーカスの低く、断定的な声。
「俺が、そうすると決めただけです」
デイジィがゆっくりと顔を上げた。
「……この世界のあなたは、もういらないと、言ったでしょう?」
デイジィの柔らかい声音に、微かな棘があった。
エーリカには何の話か、わからない。
だが、ルーカスの喉がわずかに鳴ったのだけは分かった。
「――それでも、行く」
拒まれても、ルーカスの言葉は短く、固い。
「贖罪のつもり?」
「そうだな。お前が、許してくれるなら」
みんな、それ以上は言わない。
ただ一つだけ、エーリカにもはっきりわかった事――ルーカスは、もう決めている。




