32:宿願
数日後。
整頓された室内に、微かに漂う薬草の苦々しい香り。
窓の向こうでは、降り続く雨が庭を淡く煙らせていた。
湿気る空気の中、エーリカの身体は鉛のように重く、ただ佇むしかできなかった。
「…………エーリカ様、アレックス王子。この様な格好で申し訳ありません」
ベッドの上で、デイジィがかすかに頭を下げた。
上体を起こしてはいるものの、その身体にはほとんど力が入っていない。
沈み込んだシーツが、その衰弱の度合いを物語っていた。
(……どうして、こんなことに?)
デイジィの痩せた頬、血の気を失った指先が、エーリカの胸の奥を掻きむしる。
「これまでのこと、全て、お話ししますわ。……ねぇ、王子?」
「お前の良いように」
胸が苦しいのだろう、デイジィが少しずつ言葉を紡ぐ。
か細く途切れる言葉だが、この場を支配しているのは、間違いなくデイジィの言葉だった。
そのデイジィが一度瞼を伏せ、静かに言葉を選ぶ。
「とても、単純な理由です……。私たちは、“愛する人に、もう一度会うために”、刻を巻き戻しました」
その言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。
「愛する人――」
言葉の意味を理解するより先に、エーリカはアレックスの横顔を見つめてしまう。
その視線に気づいたのか、アレックスもエーリカの方へ顔を向ける。
だが、エーリカは視線が絡む前に、顔を背けてしまう。
(……合わせる、顔がないわ)
思わず身体を固めたエーリカを他所に、デイジィは訥訥と話を続ける。
「最初の“刻”、私たちは、あなたたちの、処刑を、止めることができなかった。あの時は、証拠も手立てもなくて……もう、神様に祈る事しかできなかった……。でも、神様はいなかった……だから、私たちは――」
どこか遠くを見るような、誰も映していないデイジィの瞳が、じわりと潤っていく。
途切れたデイジィの言葉をアレックスが引き継ぐ。
「――だから、我々は、神が救ってくれないのなら自分たちでやるしかないと……王家にのみ伝わる禁術に手を出したのだ。それは、時間を巻き戻す術式で、私の魔力を媒介に、デイジィ嬢が術を発動させた」
「……私は、未来を知っているんじゃなくて……本当に一度……処刑、されていたんですね……」
鉄格子越しのアレックスの瞳、慰めるデイジィの表情。
走馬灯のように、エーリカの記憶が鮮明に溢れ出る。
(あの時の、目も、あの笑顔も……私は、何も見えていなかったのね……)
ずっと悩んでいた“未来の夢”の正体が目の前に現れ、エーリカの胸の奥に刺さっていた棘の正体が、ようやく形を持った気がした。
「はい。エーリカ様が覚えている全てが、現実です。それを、繰り返さないように、今回……いえ、もう“前回も”ですね。私たちは、動いていたのですが……」
「どうして、そこまで……?」
思わず吐いて出たのだろう。
ルーカスが震える声で呟いていた。
「――本来はね、私たちが結婚していたのよ」
さらりと、何でもないように、デイジィが答える。
ルーカスは目を見開き、ただ言葉をなくして立ち尽くしていた。
「予定では我々二人だけが“逆行”して事件を阻止した暁に、本来の形に戻すはずだったんだが」
「……私が、動いてしまった……」
気付けば、エーリカから言葉が漏れていた。
後悔すべきなのか。謝るべきなのか。誰を責めればいいのか――それとも、責めるべきは自分なのか。
エーリカには、もう何ひとつ、判断がつかなかった。
「……ただの、おせっかいだったんです。エーリカ様が巻き戻ったことは」
「おせっかい?」
「同情――です。あなたが冤罪であることはわかってましたから。それで死刑なんて可哀そうだと、思ったんです。……でも、今は後悔しています。まさか――あなたが、ルーカスと、婚約するなんて……」
「まだ起きてもいない事件の犯人を捜すことに手間取ってタイミングを逃してしまった……もっと早く、すべてを話すべきだった」
明かされた現実はあまりにも重く、誰も言葉を紡げない。
空気だけが、重く沈んでいく。
解き放たれた秘密があまりにも多すぎて、エーリカは無意識に膝の上で指先を握りしめる。
「あの、それじゃあ……今回の、“巻き戻り”は……?」
「それは私も聞きたいことだ」
エーリカの問いにアレックスが同調する。
ルーカスがはっと、少しだけ顔をあげたのが、エーリカの視界の端に映った。
少しだけ見えたルーカスの顔色は悪く、何かを、必死に押し殺している顔だった。
重苦しい沈黙の中で、ただ一人、デイジィだけが、静かに微笑んでいた。
「――だって、私のルーカスが、あの世界にはいなかったんですもの」
「ルーカスが、いない?」
「あなたたちも、偽装婚約だというのは薄々気づいていました。……でも、私の知る――私だけを見てくれていたルーカスじゃないと、気づいてしまったんです」
「――それだけのために?」
「そのためだけに」
エーリカを、押し黙らせるように見るデイジィの瞳に、迷いはなかった。
あまりにも個人的な理由に、エーリカは思わず眉を寄せ、言葉を失う。
アレックスが聞く。
「……術の発動には、“条件”があったはずだが?」
「はい。今回の魔力源は王女様に頂いた魔石です。元々、私ひとりだけで戻るはずだったので、“血”は使用していないはずだったんですが……」
魔力や魔石はなんとなくわかるが、“血”という不穏な言葉にエーリカがぴくりと反応する。
「……発動者以外が共に巻き戻るためには、その本人の血が必要なのだ。我々は、既にあの術に組み込まれていた可能性が高い。ゆえに、今回は血が不要だったのだろう……ただ、ルーカスは――」
アレックスが言いかけて、ルーカスを見る。
当のルーカスは、首に手をやり、真っ青な顔をしている。
エーリカの記憶が氾濫する。
――鈍色に光る短剣の刃と、白銀のマントに飛び散った、赤。
遅れて、エーリカの理解が追いつく。
(ルーカスは、あの庭園で――あの血で――)




