31:天秤
エーリカがもう一度目を覚ますと、そこは自室のベッドの上だった。
見慣れた天蓋。淡い刺繍。窓から差し込む朝の光。
あまりにも、穏やかすぎる空気がエーリカの胸をざわつかせる。
(夢なら、よかったのに……)
そんな淡い期待を抱いても、エーリカの胸の奥に沈んだ重さが、はっきりと昨夜の現実を主張していた。
コンコン、と扉が鳴る。
「お嬢様、ご起床くださいな。準備の時間がありませんよ」
聞き慣れた声と共に、サラサが部屋へ入ってくる。
その柔らかな微笑み。その変わらぬ所作。
エーリカは、その違和感を敏感に感じ取る。
「サラサ……?」
掠れた声――自分でも驚くほど弱々しい。
喉がひどく渇き、胸が詰まって息苦しい。
「どうしました?なんだかお顔色が優れませんね」
心配顔のサラサ。
いつも通りの優しい声が、妙に耳に残る。
(違う。このサラサは、昨日私を心配してくれたサラサじゃないわ。絶対に……)
訝しんでいたエーリカが、ふとサラサに目をやると、その持っていたドレスに目を縫い留められた。
(その、ドレスは――)
――これは、あの夜の“後”ではない。
そう悟ったエーリカは跳ねるように起き上がった。
サラサが心配げに見つめる。
「お嬢様、本当に大丈夫ですか……?」
「え、えぇ……大丈夫……まだ私、寝てるみたい……」
エーリカは未だ混乱しているが、気丈に振る舞いながら鏡の前に座る。
鏡越しに、ワインレッドのドレスが視界に入る。
(また、戻って、いる……?)
サラサに悟られないように、エーリカは震える手を握りしめた。
(なにが、どうなっているの……?――すべて“なかったこと”なの?)
凍り付くように体温が下がっていく。
(――私は、なんの為に、こんなにも、やり直しているの……?)
◇◇◇◇
馬車に揺られながら、エーリカは静かに息を吐いた。
窓の外を流れる景色も、石畳の振動も、すべてが既視感に満ちている。
でもそんな事よりも、エーリカはずっと正解を探していた。
(ルーカスと、会えるかしら?――いいえ、違う。それよりも――アレックス様は――)
答えの出ない自問自答。わかってはいるのに、考えずにはいられない。
(誰か、覚えている人はいるかしら……私は、今日、どこに行けばいいの……?)
城に到着し、広間へ足を踏み入れる。
眩い灯り。楽団の旋律。貴族たちの笑い声。
何も変わらない華やかさが、かえって現実味を失わせる。
(なにも、変わらないわね)
いつもと同じ位置に同じ花が飾られ、同じ音楽が流れている。
人々の会話も、いつか聞いたものと全く同じだった。
違うのは、エーリカの胸の内だけ。
王家の人たちが立ち並ぶ壇上を見ると、まず、エリザベートの姿が目に入った。
(エリザベート様の、記憶はあるのかしら?)
エーリカの疑問はすぐに解消された。
壇上のエリザベートは大人しく控えめで、長い前髪に隠れる自信なさげな表情が、“記憶の有無”をしっかり示していた。
あの怒涛のお茶会で、エリザベート自身が語った幼少期の話を思い出してチクリと胸が痛む。
(いつか、本来のエリザベート様に、戻れるといいんだけど……)
俯くエーリカを、アレックスの新緑を宿した瞳が捉える。
顔を上げると、視線が交差した。
(――あの目……アレックス様……やっぱり、貴方は――)
アレックスに気を取られていたエーリカが、ふと気づいて辺りを見回した。
(……ルーカスの姿が、ない?)
心細さが爪を立てて引っ搔いてくる。
長い挨拶が終わり、エーリカは今回も庭園に続く扉を開いた。
外に出てすぐに、風が花の香りを運んできた。
あの時の庭――あの夜匂いを、かき消してくれるようだった。
――薔薇園へ行くか、回廊に行くか。
(私が、選択していいのだろうか……また、取り返しのつかない間違いを選んでしまったら――)
それは目の前に、はっきりと分岐点として現れている。
「ルーカスは……今日、城に来ていない」
思い悩むエーリカの背後で、衣擦れの音がすると、別の香りが漂った。
振り向けば、アレックスが立っている。
「アレックス様……」
「君は、今日はこのまま帰った方がいい。……誰とも、婚約は、結ぶな」
アレックスのその声音は穏やかだ。
だが、有無を言わせない。
エーリカは息を呑んだ。
「アレックス様……覚えて、おいでなのですね」
一瞬の沈黙。
アレックスが、わずかに目を逸らす。
「ずっと……前回から、覚えていたさ」
エーリカの世界から、音が消えた気がした。
「前回も……?」
「ああ」
短い肯定。
それだけで、エーリカの足元が揺らぐ。
「やっぱり……じゃあどうして――いえ、…………今日は、このまま失礼いたしますわ……」
たくさん、言いたいことも聞きたいこともあった。
なのに、エーリカは感情が渦巻くばかりで、言葉にはできなかった。
口惜しそうに俯くエーリカに、アレックスは静かに頷いた。
「あぁ、それがいい。後日、使いを出す。みんなで、集まれるように」
「……みんな?」
その言葉に、エーリカに嫌な予感が芽吹く。
「私たちと、ルーカスとデイジィ嬢。……シシィは何も知らない」
エーリカの瞳が揺れる。
風が再び吹き抜け、遠くで笑い声が響いている。
華やかな音楽とは裏腹に、回廊だけがひどく静まり返っていた。




