30:俯瞰
「――いやっ!……いやああああっ……!」
その悲鳴は、晴天を切り裂く稲妻のようだった。
次の瞬間、エリザベートが扉を乱暴に打ち開け、ほとんど転がるように飛び込んできた。
アレックスに縋り付くように、エリザベートは泣き叫ぶ。
泣きじゃくる声の合間から断片的な言葉を拾った瞬間、エーリカはほとんど反射的に駆け出していた。
(なんで?どうして?)
なにを自問しても、エーリカは正解を知りえない。
城中に張りつめた空気が満ちていた。
行き交う者たちは皆どこか蒼白で、誰もが何かに追われるように廊下を駆けていく。
庭園に続く扉を開けると、魔法のライトがそこかしこに浮かんで辺りを明るく照らしている。
薔薇園の片隅に、人が集まり垣根を作っている。
風に乗った鉄の匂いが、エーリカの喉の奥を焼いた。
人の間を縫うように進むと、サラサがエーリカに気づき、抱き留めた。
「――お嬢様っ!駄目です!見ては、駄目っ……!」
「っ……!」
サラサが懸命にエーリカの視界を奪おうとするが、エーリカは隙間を見つけて覗き込んだ。
魔法による光源で薄っすら見えたそこには、青いドレスと白銀のマントに、不釣り合いなほどの濃い赤が容赦なく飛び散っていた。
その光景を視界に入れた瞬間、エーリカの身体から一気に力が抜けた。
ぐらり、と世界が傾いた。
遠くで誰かが何かを叫んでいる。
だが、エーリカへ届く音はない。色も消えた。
ただただ、鮮やかな赤だけが、そこに在り続けた。
世界がそこだけ切り取られたようだった。
夜風も、ざわめきも、遠くで誰かが叫ぶ声も、すべてが膜の向こう側にある。
赤だけが現実で、それ以外は夢の残骸のようにぼやけていく。
サラサが支えようとしても間に合わないほど、エーリカの膝から力が抜け、そのまま崩れ落ちた。
眠っているような穏やかな顔のデイジィと、その表情が見えないけれど、首が痛そうなルーカス。
生命を否定する光景から目が離せない。
不意に、ギラツつく光の方を見ると、ルーカスの左手には、エーリカの渡した短剣が握られていた。
刃先にこびりついた赤が、夜の光に鈍く滲んでいた。
あの日、笑って差し出したときの自分の声が、鮮明によみがえる。
祝福の象徴だったはずの刃が、今は罪の証のように見えた。
押し寄せる光景に、エーリカの呼吸は次第に浅く、乱れていく。
すると、吐息とともに、予想外の言葉が漏れた。
「ごめん、なさい……」
なにがあったのかなんてわからない。誰に向けてなのかもわからない。
「ごめんなさい――私の――」
エーリカ自身、どうして謝っているのかわからない。
それでも、吐き出してしまわなければ、壊れてしまいそうだった。
(もし、あの時――もし、あの部屋で――もし、私が――)
へたり込むエーリカにサラサが寄り添う。
優しく暖かなサラサの手が、戸惑いながらもエーリカの背を撫でている。
背に感じる温もり、目の前にある現実、渦巻く思考、押し寄せる感情に。
エーリカは圧し潰される。
耳鳴りがする。頭痛が始まる。瞼が嫌に重い。
(誰かが、私を呼んでいる。けれど、私は……)
何かを考えなければならない気がした。
けれど思考はうまく形にならない。
指先から力が抜けていくのを感じながら、エーリカの視界は暗くぼやけてゆく。
(私は――もう――なにも、掴んでは――いけないの――)
エーリカの思考は闇に溶けていった。
◇◇◇◇
エーリカが目を覚ますと、いつの間にかベッドで横たわっていた。
見知らぬ天蓋。だが、それを疑問に思うだけの力も、今は残っていなかった。
「目が覚めたようだな」
「アレックス、様?……はっ!あの、私っ――」
エーリカが身体を起こそうとするが、アレックスが手をあげそれを制止する。
「無理するな。……今日はこのまま城に泊ると良い。侍女を呼んで来よう」
必要なことだけ伝えると、アレックスは静かに立ち上がる。
「あ……っ」
独りにしないで――そう言いかけてエーリカは思わず言葉を飲み込んだ。
(言っては、いけない……今の私は、あなたの隣にいる理由を持っていないもの……)
「……無理をするな」
唇をぎゅっと結んで俯くエーリカへ、横になるよう促してアレックスはソファーに座り直す。
心の声が届いたかの様なアレックスの行動にエーリカは少しだけ戸惑う。
「あの、申し訳、ありません……」
「大したことではない」
素っ気ない返答だった。
だが、その言葉とは裏腹に、アレックスの指先はわずかに強くソファーの肘掛を握っていた。
ほんの一瞬のことだった。
アレックスの緑色の目が、わずかに細められた。
その仕草を、エーリカは知っていた。
かつて婚約者だった頃、自分だけが気づき、他の誰も見出せなかった――アレックスの優しさ。
「……夢、ではないのですよね……。一体、なにがあったんでしょう……?」
「まだ捜査中だ……今はまだ、休んでいるがいい」
ゆっくりと目を閉じるエーリカのまぶたの裏には、赤い色だけがいつまでも、鮮やかに残っていた。




