29:予兆
エーリカが厨房へ向かう途中、廊下の一角から低く抑えた声が漏れ聞こえてきた。
半開きの扉――その隙間から、張りつめた空気が滲み出している。
「――貴様っ」
怒鳴り声ではない。
それでも、廊下まで届くほどの怒気を含んだ声の主が、アレックスであることはすぐにわかった。
思わず足が止まり、エーリカは扉の隙間から中を窺ってしまう。
(……王子が、こんなふうに怒っているところは、初めて見るわ)
先ほどの逮捕劇の時もそうだった。
淡い記憶を手繰っても、エーリカの中のアレックスは、常に静かで穏やかな存在だった。
無表情だの冷徹だのと評されることはあっても、感情を荒立てる姿を見せる人ではなかった。
扉の隙間から盗み見えたアレックス横顔。
その研ぎ澄まされた冷視に、エーリカの背筋がぞくりと凍えた。
(――いけない。のぞき見なんて、はしたないわ)
己の行いを恥じ、エーリカが立ち去ろうとしたその瞬間だった。
視界の端に、キラキラと輝く青が映った。
(……あの方は)
アレックスと向かい合って立つ、青いドレスの女性。
その横顔を認識した瞬間、エーリカの頬が、ひくりと小さく動いた。
(王子の婚約者。エリザベート様に信頼されている方。そして――)
エーリカの思考が躓く。
(私のルーカスの……“本来の”婚約者だった人)
その言葉が頭の中で形を成した瞬間、エーリカは無意識に息を詰めた。
視線の先で、青いドレスの裾がわずかに揺れた。
それだけの動きが、やけに現実味を伴って胸に刺さる。
(……私が、奪ってしまったのだろうか)
そう考えた途端、冷たい汗が流れる。
けれど同時に、それを肯定することも、否定することもエーリカにはできなかった。
ふいに、ルーカスの姿が脳裏をよぎった。
今のエーリカの中に、ルーカスの声や歩調、何気ない仕草、それは確かに息づいていた。
(…………いいえ)
エーリカは、その選択を後悔するつもりはなかった。
(あの時、私が確かにルーカスを選んで、そしてルーカス自身がこの手を取ってくれたんだもの)
“自分の意思で選び取った”――それがエーリカの心を支えていた。
(そう、ただ、――婚約者が変わっただけ。それだけよ)
そうであってほしい、と願いながら、呼吸を整えてエーリカは前を向く。
目の前の光景は穏やかとは言い難い。
エーリカは小さく息を吐いた。
アレックスと向かい合うデイジィは俯いていた。
怯えているようにも見えたけれど、違う。
指先がわずかに握り込まれている。
何かを堪えるみたいに。
それでも、アレックスの“圧”は、令嬢ひとりに向けられるのは酷だろう。
その怒りは、静かに、確実に場を支配していた。
眼差しひとつで、室内の温度が下がる。
これが王族の怒りなのだと、エーリカは肌で思い知らされる。
デイジィやアレックスに関してあれこれ思案して慎重になっていたにもかかわらず、エーリカは考える前に一歩前へ出ていた。
慎重さよりも先に、身体が反応してしまった。
「失礼いたしますわ」
扉をノックしながらそのまま半開きの隙間から顔を見せる。
エーリカはできるだけ爽やかに、朗らかな雰囲気で場を整えようとした。
「――」
突然のエーリカの登場に少しだけ驚いた顔をしたアレックス。
「まだデイジィ様とお話しできてなかったので……迎えに参りましたの。――ねぇ、デイジィ様?」
話を合わせて欲しくてエーリカがデイジィの顔を覗き込むと、デイジィが少しだけ顔を上げる。
瞳を覗いても、エーリカにはデイジィの内心が読み取れない。
「……っ」
喉が鳴る音すら聞こえそうな沈黙。
(余計な事、だったかも……でも、ほっておくこともできないわ)
「エーリカ嬢、優しいのは君の良い所だが、今は引いてくれまいか?」
先ほどのより幾分、落ち着きを取り戻した声音でアレックスが話す。
「それは無理なお話ですわ。私たち、お友達ですもの」
「はぁ……。ルーカスと一緒ではなかったのか?」
「一緒に帰宅できるようお仕事頑張ってますわ。それが――」
そう言い終える前に、ぱしゃり、と水音が弾けた。
次の瞬間、冷たいという感覚にエーリカは気が付いた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
「え……?」
デイジィが、テーブルに置かれていたガラスの花瓶持っていた。
一呼吸遅れて、花瓶の水を浴びせられたのだと理解する。
足元に落ちた花が、ゆっくりと雫を滴らせている。
けれど、エーリカにはそれを気にする余裕はなかった。
「デイジィ様……どうして……」
髪を伝う水滴が床へ落ちる音だけが、やけに大きく響く。
目の前に立つデイジィに表情はなく、その表情はまるで知らない誰かのようだった。
エーリカが茫然としている横で、パシッと、皮膚を強く弾く音が響いた。
デイジィの身体が、床へ崩れ落ちる。
「貴様、どういうつもりだ?!」
先ほどとは比べものにならない怒りが、アレックスからデイジィに放たれる。
頬を打たれたのだろう、デイジィの頬が少しだけ赤く腫れている。
けれど当の本人は痛がる事も、殴られた事を非難するでもなく、俯いている。
エーリカは目まぐるしく起こる全ての事を理解しようと必死だった。
「大丈夫か?」
先ほどの怒声とは打って変わって、心配の滲んだ声でアレックスがハンカチを差し出す。
「は、はい……」
ちらりと盗み見たデイジィは眉間に皺をよせ、今にも泣きだしてしまいそうにしている。
「あの、ありがとうございます……」
エーリカの返事なのか、ハンカチを受け取ったことへの反応なのか、アレックスの表情が一瞬だけ揺れた。
しかし次の瞬間には、何事もなかったように顔が引き締まった。
「――出ていけ、今、すぐに。」
言い放たれた命令に、デイジィがのそのそと立ち上がり膝を折り無言の挨拶をする。
この場を支配する空気に、エーリカは言葉を失った。
事態は、もうエーリカの手の届く場所を越えていた。
デイジィが背を向け扉を開けた、その瞬間、外側からノックしようとしていたらしいルーカスが、ひょいと顔を覗かせた。
「おっと、失礼……なんだデイジィか」
ぶつかりかけたデイジィの肩を、とっさに支えながらルーカスが問いかける。
「?どうしたんだ、その――」
「ルーカス……」
思わずつぶやいたエーリカ。
それを聞き逃さなかったルーカスがデイジィの背後に、濡れたエーリカの姿を見つけ、表情を変える。
「?!エーリカ、いったいなにが……っ」
デイジィの肩を放し、エーリカの元に駆け付けようとしたが、できなかった。
「?」
ルーカスが振り返れば、嘆願するような表情で、大粒の涙をこぼすデイジィが、しっかりとその裾を掴んでいた。
「な、なんだ?どうしたんだ?」
「――もう行け」
低く抑えられたその声が、部屋の空気を一瞬で凍らせた。
その声にはっと我に返ったデイジィはルーカスの裾を放し、走り去ってしまう。
(デイジィ様、まさか……まだ――)
「なにがあったんですか」
「私は、たまたま通りかかっただけで……」
「…………」
二人から視線を受けても、アレックスは口を開かない。
ただ、わずかに眉を寄せるだけだ。
「デイジィ様、泣いておられたわ……」
なにか話してほしい――そう懇願するようにエーリカはアレックスを見つめる。
「はぁ……ルーカス、デイジィ嬢を追いかけなくていいのか?」
根負けしたように、小さくため息をついたアレックスがとうとう口を開く。
「俺が?……でも……王子が、行かなくていいんですか?」
「……はぁ」
アレックスの答えはただ小さく息を吐いただけだった。
そのため息は、呆れにも、諦めにも聞こえた。
そんなアレックスに、ルーカスは一瞬迷ったようだが、すぐに真剣な顔でうなずいた。
「わかりました。俺が、行きます。」
頷いたルーカスが一瞬、エーリカの濡れた髪に手を伸ばしかけた。
だがその手は、迷うように宙を彷徨い、やがて静かに引き戻された。
そのまま何も言わずに踵を返し、足早に部屋を出ていった。
呼び止める理由が、エーリカには思いつけなかった。
ルーカスがデイジィを追って去ったあと、部屋にはエーリカとアレックスだけが残された。
「……巻き込んでしまったな。すまない、エーリカ嬢」
アレックスが静かに頭を下げた。
「頭をお上げください!私こそ、踏み込むべきじゃありませんでし――」
エーリカは急いで言葉を返した。
しかし、その言葉を言い終える前に、アレックスはすっと目線を上げ、エーリカを見つめる。
(……っ)
エーリカが息を呑むほどに、アレックスの眼差しは、射るように強く、泉の水面のように静かだった。
その瞳の奥に、言葉にできぬ何かが深く影を落としていた。
「――お花、濡れてしまいましたね……」
その視線から逃れるように、エーリカは屈みこんで、投げ捨てられたナーシサスの花を拾い上げる。
黄色い花がひとつ、首を落とされたみたいに床へ転がっていた。
ふと、水音。
アレックスが一歩だけ近く、エーリカの傍に立つ。
「……王子?」
エーリカが訝しむように問いかけると、アレックスはゆっくりと息を吐き出した。
「……君が、私の隣に立っていない現状は、本来あり得ない」
「えっ?!」
その一言だけで、エーリカは膝をついたまま、全身が硬直した。
アレックスが目の力をふっと抜き、窓の外を見やった。
「私は……いや、違うな」
一瞬、言葉を飲み込む。
「みんな、どこかで道を誤った」
――あぁ。
――あなたも、知っているのね。




