20:胎動
お店の奥、商談や上客をもてなすための部屋に案内された。
外の喧騒が扉の向こうに遠のき、静寂が降りる。紅茶の香りと淡い陽の光が、金の縁を描くように部屋を包み込んでいく。
壁には名のある画家の絵が並び、磨き抜かれた銀器が微かに反射して、室内の空気に上品な緊張を漂わせている。
「それで、話って?」
デイジィは完璧な笑顔を浮かべていたが、その眼差しのには探るような冷ややかさがあった。
「あー、その、お前と……えーっと……」
ルーカスが話そうとするが、元来素直な性格で、遠回しな言い方が苦手なので言い淀んでしまう。
そこで、エーリカが静かに後を引き継いだ。
「デイジィ様は、ご自身がアレックス王子とお噂になっているのをご存じでしょうか?」
先ほどまで穏やかだったデイジィの口元が、ぴたりと止まった。
「……どなたに噂されてるのでしょう?」
エーリカにはその目の前の笑みが、仮面のようだと思えた。
口を開くたびに、薄い氷の上を歩くような危うさがつきまとった。
「それは…………リヒトブルーの服は目立つ上に、着用できる方は限られますので……」
「リヒトブルーが有名になった事を誇るべきか、貴族のその情報網に驚くべきか、迷いますね」
普段から貴族相手に商売をしているデイジィは、貴族の言い回しにも慣れているようだった。
だがそんな上品な言葉とは裏腹に、その瞳の奥底に、嫌悪のような、ちりちりとした翳りが見え隠れしている。
「えぇ、その相手は私で間違いないです。そこまで噂になってるとは、知らなかったわ」
「お前、アレックス王子と婚約するのか?」
ルーカスの問いは直球だった。
その名は空気を震わせ、触れてはいけないものが降り注いだような、張り詰めた気配が走る。
デイジィの指先が震え、カップがガチャンと高い音を立ててソーサーに戻された。
「そんなことっ――まだ、決まってないわ……」
音をたてたことは、反射的な行動だったのだろう。
デイジィの声音は、平静を装っている。
だが、紅茶のしずくが一滴、手の甲に落ちている。
光を受けて、それはまるで血のように赤く見えた。
エーリカは身体の中がざわめき、鼓動の速さも増すばかりで、居たたまれない。
「――デイジィ様は、エリザベート様とも親しくされているのですか?人嫌いとのお噂ですが」
「……そうですね、私を姉のように慕ってくださってますわ」
「でも、エリザベート様は――」
「先ほどから、なにが言いたいのでしょう?」
その声音には、明確な壁が作られていた。
空気が一瞬で張り詰め、エーリカの背筋を冷たいものが走る。
デイジィの訝しげな瞳が、まっすぐにエーリカを捉えて離さない。
「エーリカ様は聡明な方だとお聞きしておりましたが、他家のことにずいぶんとご熱心なのですね」
「おい、デイジィ」
ルーカスが低く呼ぶ。
しかしデイジィは首を横に振った。
「私が誰と仲良くしようと、誰と婚約しようと……今のあなたにはなんの関係もないでしょう」
「それは……でも、俺たちは幼馴染じゃないか……」
デイジィの瞳に、いつもの慈しむような柔らかさはなかった。
「確かに幼馴染かもしれないけど、私の選択に口出しはできないわよね?……だって、なんの約束も、ないもの」
ルーカスは何も言わなかった。
ただ、拳が静かに握られていくのをエーリカは見ていた。
「……すまない、デイジィ。俺たちはただ、心配で……」
ルーカスの声が低く震える。デイジィはほんの少しだけ顔を緩めたが、その目には緊張の色が残っていた。
「心配してくれるのは嬉しいわ。でも、ルーカス、私はもう決めているの。絶対に諦めることはないわ」
「……デイジィ様、私の無礼、深くお詫び申し上げます。ただ――」
言葉の最適を探るエーリカを、デイジィがため息で止める。
「――エーリカ様、あなたが私のことを気にかけてくださるのは分かりました。……けれども、しばらくはお手紙だけでお話ししましょう」
それは拒絶だった。
「もう、よろしいですよね。今日は大事な来客があるんです――王家の方なんですけど」
デイジィが立ちあがり、ドレスの裾が揺れた。
そのまま、甘い香水の香りを引き連れ、部屋を出ていく。
扉の閉まる音が、妙に重く響き、まるで“線引き”の音のようだと、エーリカは思った。
デイジィが去ったあと、ルーカスとエーリカの間に長い沈黙が落ちた。
紅茶だけが、冷めたまま残っていた。
「……あいつがあんな風に怒るなんて」
ルーカスが小さく呟いた。拳を握りしめ、悔しそうに俯く。
「私、距離感を間違えましたわ……夢では親しかったから、あの時のように話を聴いて貰えると――油断していました」
ルーカスは黙って頷いた。
「以前、あなたに言ったことが自分に返ってきました……俺は幼馴染の立場にあぐらをかいて、あいつの気持ちを蔑ろにしてしまった……」
ルーカスは何かを堪えるように、床を睨んでいる。
「……デイジィ様に、嫌われてしまった……」
「……それは……大丈夫。今は怒っていても、きちんと話せば分かってくれる、はずです」
「そうだと良いのですが……挽回の機会を待つしかないのでしょうね」
静かにうなずき合ったあと、ルーカスが口を開いた。
「あの、こんな時ですが……俺、正式に師団長に任命されて、来週から王女付きに配属されるんです」
「来週から?!」
「本当に急ですよね」
「えぇ……目まぐるしくて、倒れてしまいそうです」
窓の外では、午後の日差しが街に降り注いでいる。
どんな未来が待っていようとも、エーリカは立ち止まることはできない。
けれど、拒絶された痛みが、まだ微かに疼いていた。




