1:離床
エーリカは首筋に刃の重みを感じ、目が覚めた。
身体が震え、冷えた汗が頬を伝い落ちていく。
眼球の奥から涙が押し寄せ、視界が滲む。
震える指先がさらりとした肌触りの良いシーツに触れる。
久しく忘れていた手触りだった。
エーリカはシーツを握り締め、もう一度固く目を瞑る。
少しだけ息を吐き、心臓の鼓動が落ち着くのを待った。
まつ毛を揺らしながゆっくりと目を開けて、周囲を見渡した。
そこは見覚えのある昔のエーリカの自室だった。
カーテンの隙間から光が柔らかく差し込む大きな窓、清潔に保たれふかふかのベッド、豪華な装飾が施された家具たち。
全てが、遠い記憶をなぞるように心へ馴染んでいく。
「生きてる……?」
確かめるようにうなじへ手をやり、エーリカはかすれた声で呟いた。
その声は泣き叫んで潰れた声ではなく、かつての自分のように涼やかなで透明感のある声音だった。
何が起きたのか考えようとするたび、脳裏には落ちる刃の感触が蘇った。
(夢、だったの?……アレが?今が?)
あの時、自分に刃が落ちてきたことが夢なのか、今起きている事自体が夢なのか、エーリカには判断付かない。
もう一度、じっくりと部屋中に視線を巡らせる。
色鮮やかな花畑の絵画、可憐なドールハウスと素敵なお人形、そして机の上に並んだ愛読書たち。
エーリカがかつて大切にしていたものたちで溢れていた。
寂しさと死から逃れた実感がじ沸き上がり、思わずその手をぎゅっと握りしめ、白く美しい、傷ひとつない自分の手に視線を落とす。
視界から、手触りから、“今”が夢でない事を実感する。
その時、コンコンと扉がノックされた。
「お嬢様、ご起床ください」
優し気な声が響き、扉が開かれると共に、侍女が部屋に入ってきた。
(この声、その顔……)
エーリカは呆然とその姿を見つめた。
何が起こっているのか全く理解できていないが、まるで子供の頃のように、その胸に飛び込みたくなる衝動に駆られる。
サラサの姿はまさにエーリカが覚えている通りだった。
「あぁ!また隈ができていますわ!」
大きな声だが優しい彼女の声にエーリカの肩がびくりと動く。
「また夜遅くまで読書なさったんでしょう?まったくこのお嬢様は……」
そう言いながら、侍女のサラサがエーリカの目元を優しく拭う。
その仕草に、エーリカは驚きと安堵が入り混じる感情を抑えられない。
「……サラサ?」
侍女の名前はサラサ。エーリカの幼い頃からずっと仕えてきた侍女だ。
サラサの名前を口にした瞬間、エーリカの琥珀色の瞳が揺れる。
「言い訳は聞きませんよ」
サラサがぴしゃりと言い放つが、エーリカはまだ、現状を把握できないでいる。
(サラサが生きているなんて……)
じんわりと滲む涙とともに、忌まわしい映像が脳裏に蘇る。
最悪の出来事が起こったのは、エーリカが王宮で公務教育を受けている時だった。
サラサは死体となって発見され、その死は事故とされてしまった。
王家の暗黙の圧力によって、たかが侍女の死は隠蔽され、公爵家ではどうにもできなかった。
(あの時、私には泣くことしかできなかった――でも、今、サラサは生きている……)
そんなサラサが生きているのだ。
自身に何が起こったか、浮かぶ疑問を掴もうとしても、それは指の隙間から零れ落ちる。
だが、目の前にサラサがいるという事実が、エーリカを現実に引き留めた。
(まだ、夢に引っ張られているのかしら……でも、私だけじゃなくって――)
思わず指先が頬に触れる。
鏡に映る自分が、張りも輪郭も、記憶にある二十歳の自分とは違った。
そしてサラサもまた、エーリカの知る姿より若く見えた。
エーリカが疑問を口にする前に、背後ではサラサが朝の支度を進めていた。
魔法で温度を保たれた洗面鉢の湯が湯気を立て、ほのかな薔薇の香りが部屋を包む。
サラサは小さく呪文を唱え、櫛の歯先に淡い光を宿らせている。
櫛の光で髪を梳かれるたび、エーリカの胸の奥に潜んだ強張りまでほどけていく気がした。
サラサの魔法と手仕事によって身支度は整えられていく。
ウェーブヘアはふわりと纏まり、自慢のストロベリーブロンドは艶めていた。
◇◇◇◇
朝の光が大きな窓から差し込み、食堂を明るく照らしている。
長いテーブルには朝食のための準備がされていて、エーリカの家族がすでに席についていた。
朝の挨拶をしてエーリカが席に着くと、すぐにスープが給仕される。
作りたてで湯気が立つほどのスープと、牢獄での、味の薄い冷え切ったスープを比べ、泣きそうになった。
でも、それよりも失われたと思っていた家族の団らんが目の前に広がっていることに意識が向いた。
目の前に座る家族は、エーリカのよく知る、少しだけ若い家族。
母は穏やかに微笑み、兄夫婦はにこやかに会話し、父は変わらず威厳に満ちた姿勢で食事をとっている。
すべてが当たり前のように進んでいるのに、エーリカにとっては奇跡のように思えた。
「エーリカ、パーティのドレスはもう決まっているの?」
暖かなスープが喉を通るのと同時に、母の優しい声が耳に届く。その瞬間、胸が締め付けられそうになった。
激動の渦に呑まれた自分を按じた家族の涙の記憶が、ふと蘇りそうになるが、目の前の母の慈愛に満ちた微笑みがそれをかき消してくれる。
「えっと……まだ、ですわ、お母さま。……色々と迷ってしまって……」
言葉を絞り出すように答えると、兄が笑って言う。
「エーリカは美人だから、何を着ても似合うさ」
その軽口に、エーリカは思わず微笑んだ。昔から兄はこんな風に妹をからかっていた。
「あら、ありがとう、お兄様。お世辞でも嬉しいわ」
エーリカが答えると、バートが妻のシャーロットに得意げな顔をする。
それを横目に、父が厳格な声で口を開く。
「だが今回は王家主催だ。我がヴェーデキント家に相応しいものを選びなさい」
威厳のある低い声が、エーリカの心にかすかな疑問を抱かせた。
「はい、もちろんですわ。お父様」
言葉が勝手に返事をしていた。
エーリカの思考は置き去りのまま、無意識に、スプーンを握る手に力が入る。
(……私、この会話を知っているわ)
冷水を浴びせられたかのように、背筋が粟立つ。
(そう……確か、このあと、お母様とお義姉様がドレスの話をするの……)
浮かんだ記憶をなぞるように、視線がふたりへ向く。
やがて記憶通りの言葉が落ちた。
まるで既に歩いた道を、もう一度なぞらされているようだった。
(私、知っているわ……未来を――)
その事実に気づいた瞬間、血の気が引いた。
エーリカが知っているのは、幸福な時間だけじゃない。
――3年間の全て。
婚約の喜びも。
サラサの死も。
王子の視線も。
家族の涙も。
あの処刑も。
スープの皿が、かちゃりと小さく音を立てる。
喉の奥がきゅっと縮む。
(嫌よ、あんな未来なら、いらないわ……。どうにか、捨てれないかしら…………)
胸の奥へ、小さな熱が灯る。
(そうよ。今、私は幸せなの――この幸せ、絶対に壊したくないわ)
喉を通るスープの味が、先ほどよりも少しだけ甘く感じられた。




