プロローグ
薄暗い地下牢で、ヒースの花だけが色を持っていた。
錆びた鉄格子の向こうから差す、わずかな光。
その光を浴びる花を、エーリカ・ヴェーデキントは見つめていた。
どんなに花が視界を彩ろうとも、エーリカが感じられるのは、無機質な石壁の触覚と、それに背からじわじわと奪われる熱。
そして深い孤独だけだった。
――『エーリカ・ヴェーデキントは有罪とする』
エーリカは自身の運命が決定した瞬間を思い出す。
自分の有罪を告げた裁判官の顔は、記憶の中でぼんやりと霞んでいるが、人を裁く音でしかない声だけは覚えている。
あの瞬間、すべてが崩れ去ったという実感はなく、まるで悪い夢を見ているような感覚に囚われた。
それでも、周囲の大人たちの興味本位の眼差しが、容赦なく現実を知らせた。
記憶に深く刻まれたその視線は、エーリカ自身の存在そのものを否定する。
――『私は暗殺など企てていません!』
法廷の現実を突きつけるような石床にひざまずき、エーリカは声を振り絞り、必死に抗議したが、その声は虚空に掻き消されていった。
無実を証明する証拠はどこにもなく、ただただ絶望の淵に立たされていた。
あの時の無力さと、泣いていた家族の顔を思い出すだけで、いまでも息が詰まる。
娘を信じ、無罪を訴えてくれていた両親の心をさらに傷つけていることが歯がゆかった。
――『エーリカ……』
――『私は何もしていません……』
目を瞑るエーリカの脳裏に浮かんだ顔は、かつでの婚約者、王国の王子でもあるアレックスだった。
アレックスの存在は、エーリカにとって唯一の希望だった。
この王子こそが、救いの光だと信じていた。
あの手が、言葉が、自分をこの奈落から引き上げてくれるはずだと、エーリカは信じていた。
しかし、その期待は泡沫に溶け消えた。
鉄格子越しに逢えたアレックスは、何も言ってはくれなかった。
エーリカをその見下ろす緑の瞳には、迷いも怒
りも、憐れみすら映っていなかった。
婚約中すら、アレックスは滅多に笑わなかった。
けれど庭園で紅茶を零した日、小さく肩を揺らして笑ったことがある。
あのわずかな微笑みが、エーリカは好きだった。
今、その優しい微笑みは過去の幻影となり、エーリカの眼前にはもう存在しなかった。
――『アレックス様……どうか、信じてください』
エーリカがどんなに呼びかけても、その声は届いていなかった。
狭く暗いこの地下牢に来る前、エーリカは大好きな家族と過ごし、恋人とのお茶会や、友人たちと華やかな舞踏会に出かけていた。
あの頃は、こんな地下牢へ繋がれるなど思いもしなかった。
舞踏会の音楽も、庭園で飲んだ紅茶の香りも、思い出そうとすると輪郭が滲む。
記憶は、もう遠い過去へ沈んでいた。
今ここで思い出されるのは、あの裁判のことばかりだ。
過去の幸せな記憶は冷え切った牢獄の中で色褪せ、今やエーリカにとっては幻のように遠く、凍りついてしまった。
「花瓶の水を替えに参りました」
エーリカの意識を押し潰すほどの記憶の洪水から引き揚げてくれたのは、この監獄での身の回りをするために付いてくれた侍女だった。
デイジィと名乗るこの侍女と知り合って、まだ間もない。
それでも、エーリカの無実を信じてくれる数少ない存在だった。
嘘か本当か、同情か、それとも義務か――エーリカには分からない。
しかし、“信じる”という言葉と慈愛を湛えたデイジィの微笑みは、薄暗い牢獄の中にあって、唯一の温もりだった。
水を替えてもらいデイジィの手でバランスよく花瓶に生けられたヒースの花は、薄暗いこの場所でも鈴生りに咲いて美しさを保っている。
――『ヒースの花は不屈の象徴だと言われています』
デイジィがこの花を持ってきたときに言った言葉が蘇る。
「不屈ね……私だって、負けてなんていられない……」
弱々しく零れた声は、石壁の隙間を抜ける風にさらわれた。
小さな決意は誰の耳にも届かず、薄暗い牢に溶けていった。
◇◇◇
遠くで輝く星に手が届かないように、エーリカには運命を変える力などなかった。
花瓶の水を替え、他愛ない話をしてくれていたデイジィが、いつしか姿を見せなくなった。
鈴なりだったヒースは色を失い、やがて最後の花弁が落ちる。
――その日、牢の扉が開いた。
青空はどこまでも高く、雲ひとつなかった。
見上げたエーリカは、その果てない青に目が眩む。
家族が娘の不祥事の後始末に追われて憔悴しきっているのは分かっていたし、こんな状況に巻き込んでしまった負い目もあり、顔を合わせるのがつらくて面会を断っていた。
婚約者だったアレックスは一度訪れたっきり音沙汰もなく、世話の合間にお喋りしてくれていたデイジィも最近見ていない。
エーリカは、誰ひとり傍にいないまま、処刑の日を迎えた。
朝靄の残る広場には、下世話な噂話と興奮したざわめきが渦巻いていた。
その中心で、エーリカは好奇の視線を全身で浴びている。
囚人服のボロいワンピースを身にまとい、足枷に繋がれたエーリカは泣きそうになるのをぐっと堪えた。
ここで泣いてしまったら、自分の死を喜び心待ちにしている歓声に色を添えるだけだ。
(泣かないわよ……こんな連中の前で、泣いてなんて、あげないんだから)
それが、エーリカに残された最後の誇りだった。
「これよりエーリカ・ヴェーデキントのエリザベート王女殿下暗殺未遂の件で刑を執行する」
執行官の声が広場に響いた。
それは宣告ではなく、終わりを告げる鐘の音だった。
処刑の宣告に応えたのは、観衆だった。
楽しげなヤジが飛ぶ。
歓声は刃だった。エーリカを容赦なく切りつける。
跪くように首台へ伏せた瞬間、鈍色の鉄の気配に、うなじがぴりついた。
「どうして、こうなったの……私は、なにもしていないのに」
――(誰か、助けて)
応えはなかった。
無慈悲な刃が自分に迫るのを感じながら、エーリカの最後の祈りは心の中で静かに消えていった。




