18:緩和
朝の光がカーテン越しに差し込み、柔らかな金色が部屋を満たしていた。
まだ朝露の名残を宿す空気が、わずかに冷たく肌を滑る。
鏡の前で、エーリカは小さく息を吐いた。
「サラサ、これ変じゃないかしら?」
そう言いながらワンピースの裾をちょんとつまむ。
いつもなら完璧な立ち居振る舞いを崩さないエーリカにしては、珍しい仕草だった。
鏡に映る自分の指先がわずかに震えているのを見て、思わず視線を逸らす。
「お顔が可愛いので問題ありません」
「意味がわからないわ」
間髪入れずに回答されて、エーリカは思わず片眉を上げる。
サラサは悪びれる様子もなく、櫛を手に取る。
「髪は服に合わせてセットしましょうね」
「こんなにはしゃいで、まるで子供みたいね……」
口ではそう言いながらも、エーリカの声はどこか弾んでいる。
足元がそわそわと落ち着かない。
鏡の中の自分が、少しだけ他人のように見える。
「別にいいじゃないですか。それだけルーカス様とのデートが楽しみなのでしょう?それだけ想える人がいることは良いことですよ」
エーリカは鏡越しにサラサの目を見つめ、くすりと笑う。
「そうかしら」
鏡に映る少女のような表情――それが自分だという事実に、ほんの少し照れくささを覚える。
「案外、ルーカス様も今日が楽しみで寝れなかったりするかもしれませんよ」
「殿方がそんなことあるのかしら?」
「誰だって楽しい日の前日ははしゃいじゃうものです」
サラサは髪を軽くまとめながら、くすくすと肩が小さく揺れている。
その笑みに釣られるように、エーリカも肩の力が抜ぬける。
「ふふっ、聞いてみようかしら」
思わず零れた笑いが、朝の静けさをひとつ揺らした。
◇◇◇◇
今日は、王都の中央広場で市が開かれている。
数えきれないほどの屋台が並び、香ばしい匂いと人々の声が街を満たす。
エーリカにとってこうした「庶民の生活」を目の当たりにする機会は滅多にない。
午前の日差しを受けた石畳が、ほのかな温もりを帯びている。
騎士服ではなく、軽装に近い私服姿のルーカスは新鮮で、思わず目を奪われてしまう。
「今日の市は、特に平民の生活に合わせた魔道具が多いんですよ。ほら、あれなんか……」
ルーカスが指差した先には、色とりどりの石を並べた露店。
並べられた石の中の紋様が、淡く輝いている。
「綺麗ね。まるで光が生きているみたい」
「転送式の光玉です。灯りにも装飾にも使えるんですよ」
そんな他愛もない会話を交わすたびに、エーリカは穏やかに満たされていく。
魔道具の屋台、職人の手作り細工、色鮮やかな布。
見るものすべてが新鮮で、通りを歩くたびに、お店を覗くたびに、笑顔が増えていた。
庶民の子どもが駆け抜けていくのを見て、エーリカはつい足を止める。
その笑顔があまりに眩しく楽し気で、思わず目で追ってしまう。
「エーリカ?」
「いえ……あの子たち、幸せそうだなって」
「ええ。俺もああいう光景、好きですよ」
ルーカスの声音は、安堵を誘うようで、耳に心地よい。
やがて、二人は公園のベンチに腰を下ろした。
手には、屋台で買った紙袋がひとつずつ。
その中には焼きたての串肉と、香草の香り漂うパン。
エーリカにとって買い食いも初めての経験で、最初は串をどこから口に運べばいいのか迷うほどだった。
「――美味しいっ」
ルーカスが少し得意げに笑う。
「王都で一番人気の屋台ですよ。毎年すぐ売り切れになるんです」
「そうなのね。知らなかったわ」
食事も終えて一息ついたころ。
エーリカはそっと手提げの中を探り、一振りの短剣を取り出す。
薄赤に染められた鞘に、金色で繊細な模様が刻まれている。
日差しを受けて輝くその短剣は、華美ではないのに不思議と目を引いた。
「我が家では代々、バンデブローチと交換として、女性が嫁ぐときは身に着けるものをお渡しするんです」
エーリカの声は少し震えていたが、言葉はまっすぐだった。
「物によって、意味があるんですよ。眼鏡なら“あなたをいつも見ています”。ループタイなら“あなたを離さない”。そして――短剣は、“あなたを守ります”って意味になります」
その言葉を口にした瞬間、自分の耳まで熱くなるのがわかった。
「どうぞ……受け取ってくださいませんか?」
ルーカスはしばし言葉を失い、目を瞬かせた。
「俺なんかが、いいんですかね……いつか、安心して、好きな人と結婚できるとなった時にでも……」
ルーカスの言葉を遮るように、エーリカが小さく首を振る。
「私は、あなたに受け取って欲しいんです」
エーリカの瞳に、迷いはなかった。
ルーカスは短剣をしっかりと握りしめる。
「……ありがとうございます。大切にします」
その声はいつもより少し低く、ゆっくりと、でも確実に、エーリカに届いた。
風に揺れた木々から、葉が一枚、舞い落ちる。
やがて、正午の鐘が街のあちこちから鳴り響いた。
「――もうこんな時間か。そろそろクッキー屋に行きましょうか。午後になってしまうと混んでしまいますから」
「なら、急ぎませんとね」
エーリカは立ち上がり、スカートの裾を整えた。
心なしか、足取りが軽い。
「行きましょう、エーリカ」
「はい――ルーカス」
名前を呼び合うその響きが、午前の日差しの中で重なった。
気づかぬうちに朝よりも近い距離で、ふたりは並んで歩き出す。




