17:静謐
少しの静寂が流れる。
お互いの紅茶の香りがふわりと重なり合い、ふたりは同時に小さく息を吐いた。
「……ルーカス様」
エーリカはそっと彼の名を呼んだ。
「はい、エーリカ様?」
呼びかけに、ルーカスが柔らかく応じる。
その声音が胸の奥を、そっとくすぐった。
「……その、“様”をつけるの、お互いやめませんか?」
「え?」
「仮とはいえ婚約者同士ですし……。それに、私はあなたを、とても尊敬しています。でも……その、距離が少しだけ寂しく感じてしまう時があるんです」
素直になると決めたエーリカは少しだけ遠慮を捨てた。
「えっと……エーリカ……?」
呼び捨てにされた名が、部屋の空気の中で小さく響いた。
さらりと聞こえる言葉の裏に、ルーカスの耳は真っ赤になっている。
エーリカはそれだけで心が擽られ、微笑みながら小さく息を整えた。
「……ありがとう。じゃあ、わたしも――ルーカス」
途端にエーリカも頬が上気する。
(改めると、これは恥ずかしいわね……)
呼び慣れない名前の響きが、妙にくすぐったい。
このまま黙っていたら、自分ばかり意識してしまいそうで――エーリカは慌てるように話題を探した。
「……えっと、あと、まだいろんな話をしたんです。――アレックス王子とデイジィ様のこととか……」
自分から話題を振っておいて、失敗した。と、思った。
アレックス王子の名を、自分はまだ平然と扱えないと、胸の痛みが知らせる。
「……アレックス様、ですか?」
ルーカスの瞳がわずかに揺れる。
先ほどまでの柔らかな空気が、ほんの少しだけ張りつめた。
「やっぱり、驚きますよね」
「そう、ですね……俺はどちらも知りませんでした」
短い沈黙が落ちた。
エーリカはカップの縁に視線を落とし、小さく息を吐く。
「こちらは、あくまで噂の域をでませんわ。……王子と、リヒトブルーのドレスを着た女性の、逢引が目撃されている、とのことです」
「なんだか、信じられないですね。リーベルス家は領地を持たない準男爵で平民ですし……」
「でも、リーベルス商会のご令嬢ならば、高位貴族の養女となることも可能でしょう。第二王子の婚約者となれば貴族側から求められてやまないかと」
「あー……えっと、ここだけの話にしてあげてくださいね……学生時代、俺とアレックス様が仲良かったんでデイジィも何度か会っているんですが……」
少しだけ歯切れ悪く話し出す。
「アイツはアレックス様に向かって『能面すぎて何考えてるかわかんない、友達になれない』って本人に言ったんですよ」
ルーカスが過去の思い出話を語り始めると、エーリカはその大胆なエピソードに驚き、思わず目を見開いた。
「一国の王子に向かって……デイジィ様、豪胆すぎません……?」
エーリカはその大胆さに驚愕しつつも、どこか感心していた。
「気の強さはエーリカ様とよく似ていますよ」
「なんだか、褒められている気がしませんわ」
ルーカスが喉の奥で笑い、エーリカは少しだけ眉を寄せる。
「まぁ、当の王子が気にせず不問にはなりましたが……あの時は生きた心地がしませんでした。だから、ふたりがお付き合いするなんて俺には想像もつかないんですよね」
ルーカスが軽く肩をすくめて言うと、エーリカも思わずくすりと笑ってしまった。
エーリカも三人のやりとりを思い浮かべ、その場面がどれほど奇妙で、同時に微笑ましいものだったのかを感じ取った。
「そう言えば、実は、未来でデイジィ様にお会いしたことがあるんです。……私が牢に入れられていた時、侍女としてお世話して頂きました」
「あぁ、きっと教会の奉仕活動かなにかでしょう。彼女は昔から敬虔な信徒でしたし」
「あの時、デイジィ様は冤罪だと信じてくれて、それが何よりの救いになったのです。あんなにも良くしていただけたこと、感謝してもしきれませんわ。……あぁ、そう言えばあなたの話も彼女が教えてくれたのでした」
エーリカの声には、感謝の気持ちが滲んでいた。過去のつらい時期を乗り越えた今、その恩義を忘れずに心に留めている。
ルーカスは優しく頷きながら、エーリカの言葉をじっくりと聞いていた。
帰り際、馬車までルーカスとエーリカは並んで歩いていた。
「そうだ。訓練期間が落ち着いたら、街にでも行きませんか?」
「えぇ、是非!ルーカスのおすすめのクッキーのお店に行きたいわ」
「はい、行きましょう。デートコースはお任せください。――お気をつけて」
ルーカスが馬車から離れると、御者が手綱を引いて馬たちがゆっくり走りだす。
小窓から見えるルーカスが馬車に手を振るので、エーリカも小さく振り返す。
手を振る姿が小さくなっていくにつれ、エーリカの胸に澱がひとしずく沈んだようだった。
門が閉まり、視線が遮られた瞬間、その澱は“寂しさ”という痛みに輪郭を持った。
「そっか……一緒に街に出るって、ただの遊びじゃなくて……デート、なのよね」
ルーカスは少しもためらうことなく、自然にその言葉を使った。
それはもう特別な約束ですらなく、当たり前の未来なのかもしれない。
馬車は揺れながら静かに進んでいく。
外の景色が流れ、夜の気配が濃くなる中、エーリカは小さく息を吐いた。
「……デート、楽しみだわ」
静かな馬車の中で呟いたその声は、紅茶の香りのようにやわらかく広がっていった。




