13:灯火
エーリカの口から出たその名前に、ルーカスはわずかに目を見開いた。
外の庭では鳥の声がかすかに響き、窓の向こうの木々が柔らかく揺れていた。
けれどこの部屋の中だけは、時間が止まったかのように静かだった。
空気の密度が変わるのを、エーリカは肌で感じていた。
膝の上で両手を握りしめる。記憶の奥に残った痛みを、押し隠すように。
「――あぁ、だから……王子に対して、警戒されていたんですね」
ルーカスの声が、わずかに低く響いた。
驚きというより、納得したような声音だった。
エーリカはその言葉に小さく喉を引きつらせ、視線を下へと落とした。
窓から差す光がエーリカの輪郭をやわらかく照らす。
伏せた睫毛が影を落とし、その表情は静けさの中に複雑な感情を隠していた。
――この人にだけは、偽りたくない。誠実でありたい。本当の姿でいたい。
――せめて、自分の口で真実を伝えたい。
過去の婚約を語ることは、恥でも痛みでもあり、疼く傷を触れるようなものだった。
それでも、今、エーリカが本当に欲しいのは、ただ“共に歩める誰か”だ。
華やかな未来でも、栄誉でもない、ただ隣で同じ景色を見て、笑い合えるそんな存在。
(今、側にいるのは、あの未来の誰でもない……私の言葉に耳を傾け、私を見てくれるのは、この人なんだ――)
だからこそ、ルーカスには真摯に向き合う。
「……気取られるなんて、私もまだまだですね」
エーリカの唇から、張り詰めたものがほどける。
その表情はどこか吹っ切れていて、声に滲む自嘲さえ柔らかかった。
「同じ道を通ることはないと思い、王女とか関わらずにすむように――アレックス様と親しくなることがないよう、気をつけていたんです」
エーリカはもう俯かない。
顔を上げ、正面からにルーカスを見据える。
そんなエーリカを見つめながらルーカスは、何かを思案している。
やがて、ふと睫毛を下げ、ためらうように口を開く。
「……だけど結局、王女様と顔見知りになってしまった、と。…………俺を選んだこと、後悔してますか?」
その問いは穏やかだったが、エーリカの瞳に一瞬、わずかな動揺が走る。
「ありえませんわ! あなたを助けたいと言ったことに、嘘も後悔もありません!」
その声には、涙にも似た熱がこもっていた。
エーリカの瞳が、迷いなくルーカスを捉える。
「……でも、もし、あなたが標的なら……王女付きになる俺のそばにいることも、危険だ」
ルーカスの低い声が、静かな部屋の空気に溶けていく。
冷めきった紅茶が、表面が、揺れることなく窓の光を映している。
「そんなのお互い様ですわ」
エーリカは小さく首を振り、包み込むような声で言う。
「私はそんなことを気にするつもりはありません。……私の方こそ、あなたを巻き込んでしまったと――」
「俺のことは……」
“気にしないで”と続けようとするルーカスの言葉を、エーリカはもう一度、今度は力強く、首を振って遮る。
その仕草には、言葉以上の強い想いが宿っていた。
しばし、静寂が落ちる。
ふたりの間を流れる沈黙は、決して重いものではなく、互いの心を確かめるための“間”だった。
外の風がカーテンを揺らし、淡い光が二人の間を通り抜ける。
その一瞬、二人の間に言葉よりも確かな絆が花開いた。
やがてエーリカが、少しだけ柔らかい声で問いかける。
「私が危険なことに巻き込まれても、その時は……あなたが、守ってくれるのでしょう?」
「……あなたにはかないませんね」
困ったように口元を和らげ、ルーカスは答えた。
エーリカはほっとしたように目を細めて、そっと言葉を継ぐ。
「だったら――お互い助け合っていけばいいんです。絶対、幸せになりましょう」
その願いは、純粋で揺らいではいなかった。
ルーカスは息を飲み、意を決したように立ち上がると、そのままエーリカの傍に膝をついた。
「はい。仰せの通りに――絶対に、お守りします」
片膝をついてエーリカの手をとるルーカスは、いつかの祭典で見た、制約の儀の騎士のようだった。
ただの約束ではない、確かな誓いだ。
エーリカの瞳がわずかに和らぎ、肩からわずかに力が抜ける。




