11:偏差
ルーカスが案内したのは街屋敷の書斎で、華やかさには欠けるが、落ち着いた雰囲気が漂う堅実な空間だった。
壁一面を覆う書棚には、分厚い本が整然と並び、古い羊皮紙の香りがほのかに漂っている。
窓の外では夜風に木の葉が擦れ、かすかなざわめきが静寂を引き立てていた。
煌びやかな広間とは打って変わって、ここには現実の重みと、ほんのわずかな安らぎがあった。
ようやく人の視線から逃れた二人は、誰にも邪魔されない空気の中で、初めて深く息をついた。
「……静かですね」
エーリカの声が、やっと張り詰めていた糸を緩めるように零れる。
先ほどまでの喧騒が遠のいていき、身体を縛る緊張が、じんわりと痛みに変わっていく。
「いったい、なんだったんですかね」
ルーカスが小さく息を吐きながら言う。
苦笑混じりの声に、エーリカはなにも反応できない。
「嵐に巻き込まれた気分ですわ……」
疲労困憊という言葉がこれほど似合う瞬間はなかった。
「こんな場所ですみません。領主館だったら自慢の温室もあるんですけど」
「あら、街屋敷の書斎はその人の人となりが見られるのですよ。案内されるのは喜ばしいことですわ」
ルーカスは少し照れくさそうに眉を下げる。
その笑顔に、エーリカはふと気づく。
――この人もまた、緊張していたのだ。
いつも颯爽としているルーカスの、年相応の表情を垣間見た。
テーブルには簡素な茶器が二つ置かれ、冷めた紅茶がほんのり香る。
エーリカはカップを両手で包み、深呼吸をひとつ。
掌に残る熱でようやく、自分がまだここにいることを確かめた。
向かい合って座ると、妙なほど距離が近く感じられる。
最近はルーカスが常に隣で支えてくれていたからだろう。
真正面から視線を合わせると、どこか心細く、同時に心強くもあった。
「――話し、できそうですか?」
ルーカスの声は、まるで冬の陽だまりのように柔らかかった。
「えぇ、そうね……」
エーリカはゆっくりと目を閉じ、唇を噛む。
「私ひとりでは、抱えきれなくなる前に、あなたと話しておきたいわ。でも私も何を話していいか……わからないことも多いのです……」
言葉を探す間に、壁時計の針がひとつ音を立てた。
そのわずかな音が、決意の背中を押す。
「……以前、お話した“未来”のこと、覚えていますか」
「夢でみた、という話ですね」
迷いなく返ってきた言葉に、エーリカは目を瞬く。
壁時計の針だけが、小さく音を刻む。
沈黙が長く伸びるほど、エーリカの指先は冷えていった。
「――未来に関してなんて、元々、何もわからないので。俺は、それが来た時に全力で対処するだけですから」
ルーカスは笑みを浮かべ、エーリカを安心させようとした。
「…………」
それでも、ルーカスを見つめるエーリカの瞳の不安は揺れている。
そんなエーリカに気づいたルーカスが続ける。
「――でも、貴女が未来に怯えるなら、その不安を少しでも和らげるためにも、これからできることをしましょう」
ルーカスの声は柔らかく、暖かかった。
「あなたの憂いを教えてもらえますか?」
ルーカスの言葉に、エーリカは少しだけ躊躇したが、その真摯な態度に心を開く決意をした。
深く息を吸い込み、静かに語り始めた。
「……これから3年後、エリザベート王女様が暗殺されかけます」
カップを置こうとしたルーカスの手が、ぴたりと止まった。
「……王女殿下が?」
「はい。未遂で終わります。でも――」
エーリカは唇を噛んだ。
「――だから……俺、なんですね……?」
ルーカスの呼吸が、わずかに止まった気がした。
そのままルーカスが、眉間に深い皺を寄せる。
エーリカは無言でうなずき、その推測を肯定した。
「王女様は無事でした。でも、近衛の責任は厳しく問われたと聞いています。それで……その犯人が……なぜか…………私だと……」
エーリカの目から涙が溢れ出し、頬を伝って落ちていった。
「信じてください……私じゃない……」
絞り出すように、縋るように、吐かれた言葉と溢れる涙をエーリカは止められなかった。
「――エーリカ様」
特別優しい声音でルーカスに呼ばれ、エーリカは顔を上げる。
そっとルーカスが真っ白なハンカチを差し出していた。
ルーカスの眉間の皺は解かれ、その瞳には熱が感じられる。
受け取ったハンカチからふわりとルーカスと同じ香りがして、エーリカは少しだけ心を静められた。
エーリカが落ち着くと、ルーカスがぽつりぽつりと話しだ出す。
「俺は、あの庭で、あなたを信じると決めたんです。それは、今も変わりありません。……ただちょっと、びっくりはしてますけど」
「…………本当に?……ただの、私の嘘や、妄想かもしれないですよ?」
「嘘で――出会ったばかりの相手に、そんな顔で助けを求めたりしませんよ」
ルーカスが吐息混じりに少しだけ笑う。
「助けを求められたら、騎士として助ける。それが我が家の家訓なんです。……それに、自分の命を救いたいなんて言われたら、誰だって、真剣に聞くしかありませんよ」
エーリカの喉が詰まる。
その穏やかさにまた涙がこぼれそうになっている。
「……ありがとうございます」
声が震え、エーリカの瞼が落ちる。
「怖かったのです。誰にも言えなくて……信じて貰えなかったら、と思うと……」
「誰だって、目の前の人を守りたいと思う瞬間があります。未来のことを知っていようがいまいが、その想いに嘘はないでしょう」
エーリカは自身の中に張り巡らされた恐怖の糸が、少しずつほどけていくのがわかった。
紅茶の香りがふわりと立ちのぼり、外で風が窓を叩いた。
その音さえ、今はどこか優し気に聞こえた。
エーリカはルーカスの言葉を噛み締める。
それがルーカスの“庇護”なのだと、エーリカは初めて理解した。
「……ルーカス様は、怖くないのですか? 自分の死を聞かされて……」
「怖いですよ」
苦笑いしながら、ルーカスは答えた。
「でも、それを知ったからこそ、備えられる。あなたが未来を教えてくれたのなら、それは“逃げ道”じゃなく、“戦うための手段”だと思います」
「戦う……」
「えぇ。俺は騎士ですから」
ルーカスが軽く肩を竦める。
けれどその笑みの奥には、どこか決意のような影が見えた。
「だから、もし未来を変えられる可能性があるなら、あなたと一緒に考えます。――一人で、抱え込む必要はないんですよ」
エーリカはその言葉に目を見張った。
恐怖に固く閉ざしていたものが、ゆっくりと緩んでいく。
――ひとりではないのだと、肌で感じ取れた。




