10:波紋
エーリカが広間に足を踏み入れると、すでに両家親族や友人たちが集まり、各々お喋りに興じている。
パーティールームは洗練された装飾に彩られ、燭台の光が柔らかく空間を照らしている。
中央には見事な花飾りが飾られ、各テーブルには色とりどりのデザートやティーカップが美しく並んでいた。
王女襲来という急な来客にも即座に席を整えたヴィツォレク家の使用人たちは優秀だとエーリカは思った。
エーリカとルーカスは手を携えながら、堂々とパーティールームの中央へと進み出た。
ルーカスが深々と一礼し、堂々とした声で話し始めた。
「皆様、本日は私たちの婚約披露茶会にお集まりいただき、誠にありがとうございます。」
「この婚約を皆様に祝っていただけること嬉しく思います。どうぞ今日は心ゆくまでこのひとときをお楽しみください」
エーリカが言葉を締めると、ルーカスが肩に優しく手を添えた。
その言葉に続いて、軽やかな音楽が再び流れ出し、会場に温かな雰囲気が戻った。
エーリカはまだ整理しきれない思いが残っていたが、今はこの場に集中するしかない。
「エーリカ様も、今は楽しんでください。せっかくのお茶会ですから」
ルーカスが楽し気にしているの見て、エーリカもそれに従うことにした。
軽やかな音楽が流れる中、主役の二人は各テーブルを挨拶に回る。
「おめでとうございます、エーリカ様」
「お幸せにね」
短いながらも温かな言葉が続き、エーリカは柔らかな視線とともに感謝を返した。
それでも、視界の端々はアレックスたちのテーブルを捉えている。
やがて、そのテーブルの番がやってくる。
急に会場のざわめきが遠のくように感じ、鼓動だけが、やけに大きく響いた。
「二人とも、おめでとう」
アレックスの落ち着いた声が、静かな威厳を帯びて響く。
ルーカスが深く頭を下げ、エーリカも裾を摘んで丁寧に礼をした。
「もったいないお言葉、ありがとうございます。ご期待に添えるよう努めます」
「……ありがとうございます、殿下。お心に感謝いたします」
エーリカは呼吸の仕方を、一瞬忘れてしまった。
アレックスの祝福は、何よりも重く、そして心に深く刺さった。
隣に座るエリザベートが、兄の言葉に頷きながら、楽しげにカップを持ち上げる。
「本当にお似合いですね。エーリカ様、今日はお会いできて嬉しいですわ」
そのベルの音のような声にエーリカが顔を上げた瞬間、ふたりの視線が重なった。
その瞬間、全身が総毛立つほどの緊張がエーリカを襲う。
「ルーカスがこれから私付きになるのはお聞きになってます?せっかくだから奥様とも仲良くなりたいと思って、今日は無理言って参加させてもらったの」
思考が一瞬途切れたエーリカが言葉を探す間に、ルーカスが答える。
「――それは、俺も、まだ聞いてないことなんですが……」
「ねぇ、お二人は家族になるのよね。――幸せ?」
誰の意も返さず、奔放にエリザベートが質問を繰り返す。
「え?……えぇ、幸せですわ」
エーリカは何とか笑顔を作り、答えたが、未だ理解が追いつかない。
「素敵!やっぱり家族が増えるって幸せなことよね」
エリザベートはぱっと顔を輝かせた。
エーリカは口元が引きつる思いで笑顔を作るしかなかった。
「シシィ、そろそろ落ち着け」
アレックスの一声が、場の空気を一瞬で引き締める。
その存在感は変わらず圧倒的だった。
「お二人の幸せを分けてもらっていたのよ。やっぱり家族って素敵よね」
エリザベートは眩しそうに目を細め、楽しそうにエーリカたちを見る。
「あの、王子……俺がエリザベート様付きになるって……」
おずおずとルーカスが口を開き、アレックスに問いかける。
その声は明らかに戸惑いを持っていた。
「まだ正式な辞令が出ていないから黙ってろと言ったはずだが?」
「だって、そのために来たのですもの」
アレックスの咎めるような視線にも動じず、エリザベートは当然のことのように胸を張って答える。
「はぁ……そうだ。シシィもそろそろ社交へ出るので信頼できる護衛が必要なんだ」
――王女付。近衛兵。ルーカスの責任。
「……それは、どうしてもルーカス様でなければならないのでしょうか……?」
渦巻く不穏に、エーリカの抑えきれない本音が、口を突いて出てしまった。
その瞬間、エリザベートの目がぴたりとエーリカに向けられる。
無邪気な瞳が、ほんの一瞬だけ淀んで見え、エーリカの背筋に冷たいものが走った。
「……なぁに?私の護衛が不満なの?」
「違いますわ!えっと……その、お仕事が大変だと、あまり会えなくなったり……あの……そう、私が 寂しいのです!」
咄嗟の声が裏返りそうになる。
なんとか言い訳を取り繕うが、自身の言葉にエーリカは顔を赤く染めて後悔する。
「……まぁ!そうよね、婚約したばかりだものね!」
視線の圧に一瞬圧されそうになったが、エリザベートがきらきらとした少女めいた笑顔を咲かせたので、それは一掃された。
(私は何を言っているのだろう……)
「エーリカ様……」
ルーカスのなんとも言えない視線を感じ、エーリカは一層の羞恥心で心臓が爆発しそうになる。
ルーカスが何を考えているのか、想像したくもない。
(うぅ、あまり見ないでほしいですわ)
エリザベートはそんなこと全く気にする様子もなく、笑顔で続けた。
「あなた達が結婚したら、ちゃんと早くお家に帰れるようにしてあげるわね!」
「約束してあげるわ」と、王族にはあるまじき軽やかさでエリザベートは声を弾ませる。
そんな笑顔にエーリカは思わず目をそらした。
その無邪気さが逆に、エーリカの不安をさらに煽ってしまう。
(夢の私はなぜ、彼女に嫌われたのだろう……この無邪気さを、私は知らない……)
「あぁ、あなた達の結婚式が楽しみね!いつ頃の予定なの?」
エリザベートは興奮気味に前のめり、期待に満ちた瞳がキラキラと輝く。
「えっと、まだ詳しく決まっておりませんわ……」
エーリカは困惑しながら答える。
「シシィ、そろそろ」
「――え?あ、そうね。今日はもう帰らないといけないの……またお話ししましょうね」
エーリカの手をエリザベートがぎゅっと握って別れを惜しむ。
「……今日は素敵な祝辞をありがとうございました。お気をつけてお帰りくださいね」
「それでは我々はこれで失礼する……ほら、行くぞ」
「……お心遣い感謝いたします」
アレックスがエリザベートの肩に軽く手を添え、促すように歩き出す。
「――王子!今日は本当にありがとうございます!」
アレックスは無言で軽く頷くだけだったが、その無表情な顔にはわずかな疲労と苛立ちが浮かんでいるようにエーリカは感じた。
二人が去ったあと、エーリカはようやく長い息を吐いた。どれほど自分が息を詰めていたのか、その時になって初めて気がついた。
アレックスたちが去り、広間には再び穏やかな音楽が流れ始めた。
だが、先ほどまでの華やかさが嘘のように、疲れと混乱が抜けないまま、エーリカは音楽を遠くに聞いていた。
「……やっと、終わりましたね」
ルーカスが小さく息を吐いた。
「はい……でも、少し頭を冷やしたいですわ」
「では、少し抜け出しましょう。皆も酔いが回ってきていますし、気づかれません」
その提案にエーリカは頷いた。




