9:慈愛
その時、控えめなノックの音が部屋の扉を響かせた。
二人でその音に顔を向ける。
小さな音なのに、不思議と空気が張りつめた。
「……どうぞ」
ルーカスが促す。
扉の向こうから現れたのは、風にふわりと揺れる肩丈のクリームゴールドの髪を持つ女性だった。
その瞬間、エーリカは驚愕し、心臓が跳ねた。
女性の柔らかく光を宿したヘーゼルの瞳は、暗く寂しい牢で、荒んだ心を救ってくれた、“希望の灯り”の色だった。
薄く色づいた唇と控えめな化粧が、彼女の上品さを際立たせている。
「あら、ルーカス。ここにいたの」
「デイジィ。来ていたのか」
その美しく気品ある佇まの女性に、エーリカは息をのみ――夢の記憶が強烈に浮かび上がった。
(この声、この笑顔……間違いない。彼女だわ)
忘れようとしても決して忘れられなかった――
「あなたを信じています」と言ってくれた、あの温かな眼差し。
その瞳を持つ侍女の姿が、今ここにあった。
「エーリカ様、ご紹介します。俺の幼馴染でリーベルス商会のご令嬢です」
「デイジィ・リーベルスと申します」
「……は、はじめまして……ルーカス様の婚約者となります、エーリカ・ヴェーデキントですわ」
(私は貴女を知っているけど……初対面なのよね。なんだか、変な感じだわ)
エーリカは動揺しながらも、礼儀正しく挨拶をした。
「本日はおめでとうございます。……頼まれてたブーケに結ぶリボンを持ってきたの」
デイジィがにこやかに、エーリカへ青いリボンをルーカスに差し出した。
キラキラと輝くリヒトブルーのリボン。
近くで見ると、やはりルーカスの瞳の色だとエーリカは改めて思った。
「あぁ、それはありがとう。間に合ってよかった」
「特急料金はまけておいてあげるわ」
ルーカスとデイジィの二人は和やかに会話を続けるが、エーリカの心は遠く離れた場所にいた。
牢獄でデイジィがヒースの花を持ってきた時のことが、今鮮明に蘇ってくる。
優しい微笑みと共に、デイジィはエーリカを孤独から救い出そうとしてくれた。
その“灯”が、今、目の前にいる。
(また、仲良くしてくれるかしら……)
「エーリカ様?」
デイジィの問いかけに、エーリカは我に返った。
「……すみません、少し考え事をしてしまいましたわ」
「……婚約者に親し気な女が急に現れたら……嫌よね」
デイジィは寂し気に苦笑する。
エーリカはその言葉を否定しようと首を振った。
「い、いえ!そんなこと……っ!」
「ルーカス様、失礼します。王家の馬車がもうすぐお着きになります」
コンコンと扉がノックされ、メイドが扉越しに声をかけてくる。
「すぐに行く。エーリカ様は……」
心配げにルーカスが見つめるので、エーリカは小さく肩を揺らして返答する。
「お出迎えは礼儀ですものね……側に、いてくださいね」
「もちろん。デイジィ、ブーケのこと頼めるか?」
「え、あぁ――いいわ。任せておいて……」
◇◇◇◇
王家の馬車がゆっくりと停まり、アレックスが優雅に下りてくる。
蹄の音が石畳に響き、風が香を運んだ。
今日のアレックスは、深い森を思わせるダークグリーンの礼服に身を包んでいた。
王子の存在は周囲を一瞬で引き締め、エーリカは思わず背筋を正す。
重厚な足音が響き、アレックスの静謐な声が耳に届いた。
「出迎え感謝する」
「アレックス王子、よくお越しくださいました」
ルーカスがにこやかな表情で対応する。
「この度は私たちの為にご足労をありがとう存じます」
エーリカが一歩進んで挨拶をするが、アレックスの表情は変わらない。
急に、馬車の中から軽やかな声が現れる。
「お兄様、待ってくださいまし」
エーリカは反射的に視線を上げた。
そこには、この国の王女が、馬車の中からゆっくりと姿を現していた。
柔らかなダークブロンドの髪が光を弾き、白磁の肌が陽光を受けて輝く。
以前と違い、その額の前髪は切り整えられており、アレックスと同じ鮮やかなグリーンの瞳も、隠されていた表情も花開いて見える。
――エリザベート王女。
その名を心で呟くだけで、エーリカの頭には暗く冷たい記憶が蘇る。
「……あぁ、手を」
アレックスがため息まじりに手を差し出し、エリザベートはその手を取って優雅に馬車から降り立った。
「ありがとう、お兄様」
アレックスは軽く目を細めただけで、言葉を返すことはなかった。
エーリカはその様子をじっと見つめながら、足元が揺らぐのを必死に抑えていた。
エリザベートの華やかさは存在感となり、周囲を圧倒していた。
そんな王女が、エーリカとルーカスの前に立ち、穏やかに言葉を紡いだ。
「初めまして、お二人とも。エリザベートですわ。急な参加でごめんなさいね、私の事はお兄様のメイドとでも思ってね」
その瞬間、エーリカの心臓は再び強く鼓動を打つ。
「……エリザベート様、ご足労いただき、ありがとうございます。どうぞ楽しんでお過ごしください」
エーリカの返答にエリザベートはにっこりと口の端で弧を描く。
「ありがとう、そうさせてもらうわ。――お兄様、エスコートしてくださいな」
アレックスは無言のまま頷き、エリザベートに腕を差し出し歩き出した。
エーリカは、兄妹の背中を見送りながら、複雑な思いを抱えたまま立ち尽くしていた。
「……エーリカ様、大丈夫ですか?」
エーリカはその声にハッと我に返ると、いつの間にかルーカスが背に手を回し、支えてくれていることに気が付いたので少しだけ肩の力が抜けた。
少し顔を俯かせながら、静かに感謝の言葉を口にする。
「……支えてくださり、助かりましたわ」
「言ったでしょ、俺が守るって。……でも、まさかエリザベート様までいらっしゃるとは……」
ルーカスも思案するように眉をひそめ、軽く肩をすくめた。
エーリカもまた、この意外な展開に動揺を隠せない。
「そうですね、まさか王女様が……。でも、あなたがいてくれて良かった……」
エーリカの絞り出した言葉には、驚きと不安がにじみながらも、安堵があった。
ルーカスは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに照れたように破顔させる。
その笑顔を見ながらも、エーリカのざわめきが止まらなかった。
(あの方が社交に出てるなんて、夢ではなかったわ。なぜ、ただの……婚約披露会に……?そして、あの変わり様……)
エーリカが記憶を辿る。
夢でのエリザベートは、王の第二妃であった母を早くに亡くし、殻に籠っていた。
(いつも目を伏せ、笑うことのない……静かな方だったわ)
兄のアレックスとは違う無表情――まるで感情を持たぬお人形のように思えたのに、今の王女には確かに“生”が宿っていた。
エーリカはそっと息を吸い込み、騒ぐ鼓動を落ち着けようとする。
ふと、隣に佇むルーカスの香水が微かに香り、それが現実へと意識を引き戻した。
(……未来が、確かに変わりつつあるのね)
そう感じた瞬間、背筋がひやりとする。
それは儚い希望と供に、名もなき不安が芽生えた瞬間だった。
何かが静かに、しかし確実に、動き始めている――。
「……これから、どうなるのでしょうね……」
ルーカスは心配そうに、でも優しい音で話しかけてくる。
エーリカのぎこちない緊張を察しているようだった。
「……しばらく休みますか?」
その言葉にエーリカは軽く首を横に振る。
「ありがとうございます、ルーカス様。でも大丈夫ですわ……私も貴族の娘ですもの」
静かに答えると、ルーカスは頷き返し、二人は一歩ずつゆっくりと歩き始めた。
お茶会会場へと続く廊下を進むと、執事が青いリボンをあしらったブーケを持ちながら小走りで寄ってきた。
「皆様お揃いです。会場へどうぞ」
エーリカはブーケを受取り、リヒトブルーのリボンにそっと触れる。
そんなエーリカを見て、ルーカスが囁いた。
「傍にいますから……」
その心地の良い声は、リボンよりも優しく胸に絡んだ。
エーリカは小さく息を吐き、安堵の笑みを返した。




