雨の日の傘
夢は、魂とともに転生する。
果たせなかった約束は、次の生で、続きを生きる。
だから——さよならは、言わない。
【一】
十一月の神保町は、雨だった。
野口孝之は折りたたみ傘を差しながら、靖国通りを歩いた。
五十五歳の体には、秋雨が応えた。
コートの襟を立てて、古書店の並ぶ路地へ折れた。
この街が好きだった。
学生時代から通い続けて、もう三十年以上になる。
書肆が軒を連ねる路地、本の重みで傾いた棚、古紙と埃の混じった独特の匂い。
どの店も雑然としていて、でもそれぞれに確固たる秩序があった。
神保町はそういう街だった。
靖国通りの表通りとは別に、一本入った路地には間口の狭い専門店が続いていて、哲学の棚、詩の棚、探偵小説の棚と、店ごとに世界が決まっていた。
雨の日はとりわけ静かで、濡れた石畳に本の背表紙が映り込むような気がして、孝之はそういう日が好きだった。
今日来たのは、一冊の本を探すためだった。
坂本悠が「読みたい」と言っていた本を。
坂本悠は、三年前に逝った教え子だった。
孝之が担任を持っていた高校三年生のクラスに、悠はいた。
十七歳。
痩せていて、眼鏡をかけて、いつも文庫本を持ち歩いていた。
授業中に読んでいて孝之に叱られたこともあったが、その本が孝之の好きな作家のものだったりして、結局叱るより話し込んでしまうことのほうが多かった。
悠は文章を書くのが好きだった。
国語の授業で書く作文が、群を抜いていた。
華やかな文体ではなかった。
むしろ地味で、言葉を削ぎ落とすような書き方をする生徒だった。
一つの文を短く切って、その短さの中に重みを凝縮させる。
余分な修飾を嫌い、書かないことで語る文章だった。
孝之は密かに、この生徒はいつか本物の書き手になると思っていた。
「先生、俺いつか小説家になります」
卒業式の前日、悠は孝之にそう言った。
照れ臭そうに、でも真剣な目で。
「なれるよ」と孝之は言った。
「お前の文章は本物だ」
悠は少し笑って、「そうですか」とだけ言った。
その三ヶ月後、悠は事故で逝った。十七歳だった。
小説家になる、という約束は、果たされなかった。
孝之が今日探している本は、悠が最後の授業で「読みたい」と言っていた一冊だった。
絶版になっていて、なかなか見つからなかった。
三年間、神保町に来るたびに棚を探していた。
今日も、それほど期待せずに来ていた。
路地の奥の、間口の狭い古書店に入った。
「いらっしゃい」
店主の老人が、帳場から顔を上げた。
それだけ言って、また本に目を落とした。
神保町の古書店はどこもそうだった。
客を構いすぎない。
ただ本と客を引き合わせることだけを、静かにしている。
孝之はその無口さが好きだった。
文学の棚、詩の棚、哲学の棚。
背表紙を一つずつ目で追いながら、奥へ進んだ。
【二】
その本は、棚の端にあった。
背表紙が少し色あせていたが、確かにその本だった。
孝之は手を伸ばした。
同時に、別の手が伸びてきた。
隣に、いつの間にか若い男が立っていた。
二十二、三歳だろうか。
黒いパーカーを着て、壊れた傘を手に持っていた。
骨が一本折れて、半分だけ開いたままになっている。
雨に濡れた様子だった。
二人の手が、同じ本の背に触れた。
若者が孝之を見た。
孝之も若者を見た。
「あ、すみません」と若者は手を引いた。
「どうぞ」
「いや、君が先だったかな」
「いえ、先生が——」
言いかけて、若者は止まった。
「先生?」
孝之は思わず聞き返した。
若者は少し戸惑った顔をして、
「あ、すみません。なんか、そう見えたので」とだけ言った。
孝之は高校教師だった。
でもそれをこの若者が知るはずがなかった。
「その本、ずっと探してたんです」と若者は言った。
「絶版で、なかなか見つからなくて」
「私もだよ」と孝之は言った。
「三年間、探してた」
若者は孝之を見た。
その目に、何か懐かしいものがあった。
孝之にはそう見えた。
でも初めて会う若者だった。
「よかったら」と孝之は言った。
「君が持っていきなさい。私はまた探すから」
若者は首を振った。
「いえ、三年間探してた人が持つべきです」
二人はしばらく、譲り合った。
帳場の店主が顔を上げずに「まあ、お茶でも飲んで決めなさい」と言った。
店の奥に、椅子が二脚あった。
神保町の古書店らしい、年季の入った椅子だった。
【三】
二人は椅子に座った。
店主が湯飲みを二つ、持ってきた。
若者は桐島颯と名乗った。
大学四年生だと言った。
文学部で、卒業論文を書いている最中だと。
「小説を書いてるんです、自分でも」と颯は言った。
少し恥ずかしそうに。
「まだ全然ですけど」
孝之の胸が、静かに動いた。
「読ませてもらえるか」
颯は驚いた顔をした。
でも少し考えてから、「短いものなら」と言って、スマホを取り出した。
メモアプリに書きためているものがあるらしかった。
孝之はスマホを受け取って、読み始めた。
短い文章だった。
五百字ほどの、情景を切り取った文章だった。
読み始めて、孝之の手が止まった。
文体に、癖があった。
言葉を削ぎ落とすような書き方。
余分な修飾を嫌い、一つの文を短く切って、その短さの中に重みを凝縮させる書き方。
書かないことで語る文章。
地味だけれど、深い。
孝之はその癖を、知っていた。
三年前、毎週読んでいた。
赤を入れながら、この癖だけは直すなと思っていた。
悠の文章と、同じ癖だった。
孝之はスマホを返した。
「うまいな」と言った。
声が少し、かすれた。
「そうですか」
颯の返し方も、どこか似ていた。
照れ臭そうに、でも真剣に受け取る言葉の受け取り方が。
「小説家になりたいのか」
颯はしばらく黙ってから、「なります」と言った。
「なれるかどうかじゃなくて、なります」
孝之は颯を見た。
二十二歳の若者の顔だった。
悠とは、似ていなかった。
目の形も、輪郭も、声も、全部違った。
でも——その「なります」という言い方が。
あの日の悠の「なれるよ」への答え方が。
孝之の目の奥が、熱くなった。
五十五歳の高校教師が、神保町の古書店の奥で、見知らぬ大学生の前で、泣きそうになっていた。
こらえた。
こらえながら、言った。
「なれるよ」
颯が孝之を見た。
「お前の文章は本物だ」
颯の目が、少し揺れた。
なぜ見知らぬ人にそんなことを言われるのか、颯にはわからなかっただろう。
でも颯は「……そうですか」とだけ言った。
その返し方も、あの日と、同じだった。
【四】
本は颯が持っていくことになった。
孝之がそう決めた。
「君のほうが、これから長く読める」と言った。
颯は丁寧に頭を下げて、本を受け取った。
店を出ると、雨がまだ降っていた。
神保町の石畳が濡れて、古書店の看板が水面に映っていた。
颯の傘は骨が折れたままだった。
孝之は折りたたみ傘を差し出した。
「いいですよ、そこのカフェで雨宿りします」と颯は言った。
「持っていきなさい」と孝之は言った。
「傘くらい、また買える」
颯はしばらく孝之を見た。
それから、受け取った。
「ありがとうございます」
「書き続けなさい」
孝之は言った。
颯に言っているのか、悠に言っているのか、自分でもわからなかった。
でも言わずにはいられなかった。
颯はうなずいた。
「書きます」
それだけ言って、傘を差して、雨の神保町を歩いていった。
黒いパーカーの背中が、古書店の並ぶ路地を歩いていく。
すずらん通りの角を曲がって、消えていった。
雨が、静かに降り続けていた。
孝之は傘もささずに、しばらく立っていた。
雨粒が頭に落ちた。
コートの肩が濡れた。
でも動けなかった。
悠、と孝之は心の中で言った。
続きを生きてるんだな、お前は。
別の体で、別の名前で、でも同じ夢を持って。
同じ文体で、同じ言葉の受け取り方で。
魂の奥にある、変わらないものを持ったまま。
よかった、と孝之は思った。
約束は、消えていなかった。
小説家になる、というあの約束は、十七歳のまま終わったのではなかった。
形を変えて、続きを生きていた。
その冬、孝之は久しぶりに悠の母親に電話をかけた。
三年間、命日に手紙を出すだけで、声を聞くことができなかった。
「先生」と悠の母親は言った。
電話口の声が、少し震えていた。
「元気でいますか」と孝之は聞いた。
「はい」と母親は言った。
「悠のこと、時々夢に見るんです。夢の中の悠はいつも、何か書いてるんですよ。机に向かって、ずっと書いてる」
孝之は少し間を置いた。
「そうですか」
「不思議な夢でしょう」と母親は笑った。
「でも、悪い気はしないんです。あの子、書くことが好きだったから」
「そうですね」と孝之は言った。
「悠君は、きっと今も書いてますよ」
母親が黙った。
一秒か、二秒。
「……そうですね」
その声の中に、三年分のものが全部あった。




