最後の一枚
撮れなかった一枚は、ずっと心の中にある。
だから宇宙は、もう一度、その瞬間をくれる。
【一】
二月の北海道は、雪だった。
森川義人は朝から窓の外を見ていた。
小さな町の、古い一軒家。
庭も、隣の家の屋根も、道路も、すべてが白く覆われていた。
雪はまだ降り続けていた。
音もなく、ゆっくりと、積み重なっていた。
義人の家の廊下に、カメラが一台、棚の上に置かれていた。
二年間、そこから動かしていなかった。
キャップをつけたまま、ストラップを垂らして、ただ置いてある。
義人が三十年間使い続けてきたカメラだった。
フリーランスの写真家として生きてきた三十年間、常に手の届くところに置いていたカメラが、二年前からそこにあった。
触れなかった。
触れると、あの朝のことを思い出すから。
妻の澄江が逝ったのは、二年前の二月だった。
六十歳だった。
長い闘病だった。
最後の一年は入退院を繰り返して、秋から自宅で過ごした。
義人が傍にいた。毎日、傍にいた。
逝く前日の朝だった。
澄江が窓の外を見ていた。
その日も雪が降っていた。
澄江は布団の中から窓に目を向けて、しばらく黙って雪を見ていた。
それから、小さく言った。
「きれい」
その横顔が——義人には、どうしようもなくきれいだった。
長い闘病で細くなった頬。
でも目は穏やかで、雪を見ながら静かに笑っていた。
その横顔を、義人は撮りたいと思った。
三十年間、写真を撮り続けてきた人間の本能として、あの横顔を残したいと思った。
「ちょっと待ってて」
義人は廊下へカメラを取りに行った。
戻ったとき、澄江は眠っていた。
穏やかな顔で、目を閉じていた。
義人はカメラを下ろした。
翌朝、澄江は目を覚まさなかった。
撮れなかった一枚が、二年間、義人の胸に刺さっていた。
あの横顔を、残せなかった。
三十年間、人の大切な瞬間を撮り続けてきたのに、一番大切な瞬間を、撮れなかった。
それからカメラに触れられなくなった。
写真家として生きてきた義人が、カメラを持てなくなった。
仕事の依頼も断った。
出かけることも減った。
白い雪に覆われた小さな町で、義人は二年間、ただ窓の外を見ていた。
【二】
隣に新しい家族が越してきたのは、去年の秋だった。
三十代の夫婦と、十歳の女の子だった。
女の子の名前は、ひかりといった。
活発な子で、学校から帰るとよく庭で遊んでいた。
義人の家の塀越しに「こんにちは」と声をかけてくることもあった。
義人は短く返事をするだけで、それ以上は関わらなかった。
でもひかりは気にしなかった。
翌日もまた「こんにちは」と声をかけてきた。
雪が積もり始めた頃、ひかりが塀越しに「おじさん、雪だるま作ったことある?」と聞いた。
「あるよ」と義人は答えた。
「一緒に作ろうよ」
断ろうとして、断れなかった。
その日、義人は久しぶりに外に出た。
二人で雪だるまを作った。
ひかりは雪だるまに木の枝で眉毛をつけて、「怒った顔にしたの」と笑った。
義人も、少し笑った。
いつ以来の笑顔だったか、わからなかった。
二月の朝、義人が台所でお茶を飲んでいると、玄関のチャイムが鳴った。
ひかりだった。
学校が休みで、母親が買い物に行っているあいだ、一人で来たらしかった。
「入っていい?」
断れる雰囲気ではなかった。
ひかりは家に上がって、居間をきょろきょろと見回した。
壁に何枚か写真が飾ってあった。
義人が昔撮ったものだった。
「おじさん、写真撮る人なの?」
「昔はね」
「昔? 今は撮らないの?」
「撮らない」
ひかりは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
二人でお茶を飲んだ。
ひかりはよくしゃべった。
学校のこと、友達のこと、好きな食べ物のこと。
義人は相槌を打ちながら聞いた。
しばらくして、雪がまた降り始めた。
【三】
ひかりが窓の外を見た。
居間の窓。
庭が見えて、その向こうに隣家の屋根が見えて、空が見える窓だった。
雪が、静かに降っていた。
ひかりは窓に近づいた。
ガラスに少し顔を寄せて、雪を見た。
それから、小さく言った。
「きれい」
義人の体が、固まった。
その一言ではなかった。
その横顔だった。
窓の外の雪を見つめる、ひかりの横顔。
細い首、少し傾いた頭、目を細めて雪を見ている表情。
重なった。
二年前の朝、澄江が窓の外を見ながら「きれい」と言ったときの、あの横顔と。
理屈ではなかった。
説明もできなかった。
ひかりは十歳の女の子で、澄江とは何の関係もない。
顔も、体型も、声も、まったく違う。
なのに、その瞬間の横顔だけが——二年前の澄江と、重なった。
義人は立ち上がった。
廊下へ走った。
棚の上のカメラを、手に取った。
二年間、触れなかったカメラ。
キャップを外した。
ファインダーを覗いた。
居間に戻った。
ひかりはまだ窓を見ていた。
雪が降る外を、じっと見ていた。
義人はカメラを構えた。
ファインダーの中に、ひかりの横顔があった。
雪の白さを背景に、小さな横顔が、静かにそこにあった。
義人は息を整えた。
シャッターを、切った。
【四】
カシャ、という音が、静かな居間に響いた。
ひかりが振り返った。
「あ、撮った」
「……ごめん、急に」
「いいよ」とひかりは笑った。
「見せて」
義人はカメラの液晶画面を、ひかりに向けた。
ひかりは自分の写真を見て、「なんか、いい顔してる」と言った。
義人も画面を見た。
雪を見つめるひかりの横顔が、そこにあった。
撮れた、と思った。
それだけだった。
それ以上の言葉は出なかった。
でも胸の中で、二年間刺さっていた何かが、静かに抜けていくような気がした。
撮れなかった一枚の代わりにはならなかった。
澄江の横顔は、澄江だけのものだった。
でも——撮れた。
また、撮れた。
それでよかった。
それだけで、よかった。
ひかりが帰った後、義人は居間に一人で座っていた。
カメラを膝の上に置いて、窓の外を見ていた。
雪はまだ降っていた。
静かに、音もなく。
澄江のことを思った。
長い闘病の間、澄江は一度も「なぜ私が」と言わなかった。
怒りも、嘆きも、見せなかった。
ただ穏やかに、一日一日を生きた。
義人が撮ろうとしたあの朝の横顔も、そういう顔だった。
雪を見て「きれい」と言える人だった。
どんな状況でも、きれいなものをきれいと言える人だった。
ひかりも、そういう子だった。
義人にはわからなかった。
それが偶然なのか、何か深いものがそうさせているのか。
でも、わからなくていいとも思った。
大切なのはそこではなかった。
あの瞬間、窓の外の雪を見て「きれい」と言ったひかりの横顔が、義人の手をカメラへ向かわせた。
それだけが、本当のことだった。
義人はカメラを持って、外に出た。
雪の中に立った。
コートも着ずに、そのまま出た。
空を見上げた。
雪が顔に落ちた。
冷たかった。
でもその冷たさが、久しぶりに体に届いた気がした。
義人はカメラを構えた。
降り続ける雪を、撮った。
一枚、また一枚。
音もなく降る雪を、白く積もった庭を、隣家の屋根を、灰色の空を。
シャッター音が、静かな雪の中に響いた。
三十年ぶりに帰ってきたような気がした。
写真家として生きてきた場所に、ようやく帰ってきた気がした。
その日撮った写真の中に、一枚だけ、不思議な写真があった。
庭の雪を撮ったつもりだった。
でもその一枚には、雪の中に、人の輪郭のような光の滲みが写っていた。
誰もいないはずの庭に。
光の滲みは、こちらを向いているような気がした。
窓の外の雪を見て、「きれい」と言っていたときの、あの表情で。




