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さよならは言わない ―あなたはいつも、すぐそこにいる― 人はどこから来てどこへ行くのか。なぜ、生まれ変わるのか。  作者: かーすけ


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10/11

最後の一枚

撮れなかった一枚は、ずっと心の中にある。

だから宇宙は、もう一度、その瞬間をくれる。

【一】


 二月の北海道は、雪だった。

 森川義人は朝から窓の外を見ていた。

 小さな町の、古い一軒家。

 庭も、隣の家の屋根も、道路も、すべてが白く覆われていた。

 雪はまだ降り続けていた。

 音もなく、ゆっくりと、積み重なっていた。


 義人の家の廊下に、カメラが一台、棚の上に置かれていた。

 二年間、そこから動かしていなかった。

 キャップをつけたまま、ストラップを垂らして、ただ置いてある。

 義人が三十年間使い続けてきたカメラだった。

 フリーランスの写真家として生きてきた三十年間、常に手の届くところに置いていたカメラが、二年前からそこにあった。

 触れなかった。

 触れると、あの朝のことを思い出すから。


 妻の澄江が逝ったのは、二年前の二月だった。

 六十歳だった。

 長い闘病だった。

 最後の一年は入退院を繰り返して、秋から自宅で過ごした。

 義人が傍にいた。毎日、傍にいた。

 逝く前日の朝だった。

 澄江が窓の外を見ていた。

 その日も雪が降っていた。

 澄江は布団の中から窓に目を向けて、しばらく黙って雪を見ていた。

 それから、小さく言った。

「きれい」

 その横顔が——義人には、どうしようもなくきれいだった。

 長い闘病で細くなった頬。

 でも目は穏やかで、雪を見ながら静かに笑っていた。

 その横顔を、義人は撮りたいと思った。

 三十年間、写真を撮り続けてきた人間の本能として、あの横顔を残したいと思った。

「ちょっと待ってて」

 義人は廊下へカメラを取りに行った。

 戻ったとき、澄江は眠っていた。

 穏やかな顔で、目を閉じていた。

 義人はカメラを下ろした。

 翌朝、澄江は目を覚まさなかった。


 撮れなかった一枚が、二年間、義人の胸に刺さっていた。

 あの横顔を、残せなかった。

 三十年間、人の大切な瞬間を撮り続けてきたのに、一番大切な瞬間を、撮れなかった。

 それからカメラに触れられなくなった。

 写真家として生きてきた義人が、カメラを持てなくなった。

 仕事の依頼も断った。

 出かけることも減った。

 白い雪に覆われた小さな町で、義人は二年間、ただ窓の外を見ていた。


【二】


 隣に新しい家族が越してきたのは、去年の秋だった。

 三十代の夫婦と、十歳の女の子だった。

 女の子の名前は、ひかりといった。

 活発な子で、学校から帰るとよく庭で遊んでいた。

 義人の家の塀越しに「こんにちは」と声をかけてくることもあった。

 義人は短く返事をするだけで、それ以上は関わらなかった。

 でもひかりは気にしなかった。

 翌日もまた「こんにちは」と声をかけてきた。

 雪が積もり始めた頃、ひかりが塀越しに「おじさん、雪だるま作ったことある?」と聞いた。

「あるよ」と義人は答えた。

「一緒に作ろうよ」

 断ろうとして、断れなかった。

 その日、義人は久しぶりに外に出た。

 二人で雪だるまを作った。

 ひかりは雪だるまに木の枝で眉毛をつけて、「怒った顔にしたの」と笑った。

 義人も、少し笑った。

 いつ以来の笑顔だったか、わからなかった。


 二月の朝、義人が台所でお茶を飲んでいると、玄関のチャイムが鳴った。

 ひかりだった。

 学校が休みで、母親が買い物に行っているあいだ、一人で来たらしかった。

「入っていい?」

 断れる雰囲気ではなかった。

 ひかりは家に上がって、居間をきょろきょろと見回した。

 壁に何枚か写真が飾ってあった。

 義人が昔撮ったものだった。

「おじさん、写真撮る人なの?」

「昔はね」

「昔? 今は撮らないの?」

「撮らない」

 ひかりは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 二人でお茶を飲んだ。

 ひかりはよくしゃべった。

 学校のこと、友達のこと、好きな食べ物のこと。

 義人は相槌を打ちながら聞いた。

 しばらくして、雪がまた降り始めた。


【三】


 ひかりが窓の外を見た。

 居間の窓。

 庭が見えて、その向こうに隣家の屋根が見えて、空が見える窓だった。

 雪が、静かに降っていた。

 ひかりは窓に近づいた。

 ガラスに少し顔を寄せて、雪を見た。

 それから、小さく言った。

「きれい」

 義人の体が、固まった。

 その一言ではなかった。

 その横顔だった。

 窓の外の雪を見つめる、ひかりの横顔。

 細い首、少し傾いた頭、目を細めて雪を見ている表情。

 重なった。

 二年前の朝、澄江が窓の外を見ながら「きれい」と言ったときの、あの横顔と。

 理屈ではなかった。

 説明もできなかった。

 ひかりは十歳の女の子で、澄江とは何の関係もない。

 顔も、体型も、声も、まったく違う。

 なのに、その瞬間の横顔だけが——二年前の澄江と、重なった。


 義人は立ち上がった。

 廊下へ走った。

 棚の上のカメラを、手に取った。

 二年間、触れなかったカメラ。

 キャップを外した。

 ファインダーを覗いた。

 居間に戻った。

 ひかりはまだ窓を見ていた。

 雪が降る外を、じっと見ていた。

 義人はカメラを構えた。

 ファインダーの中に、ひかりの横顔があった。

 雪の白さを背景に、小さな横顔が、静かにそこにあった。

 義人は息を整えた。

 シャッターを、切った。


【四】


 カシャ、という音が、静かな居間に響いた。

 ひかりが振り返った。

「あ、撮った」

「……ごめん、急に」

「いいよ」とひかりは笑った。

「見せて」

 義人はカメラの液晶画面を、ひかりに向けた。

 ひかりは自分の写真を見て、「なんか、いい顔してる」と言った。

 義人も画面を見た。

 雪を見つめるひかりの横顔が、そこにあった。

 撮れた、と思った。

 それだけだった。

 それ以上の言葉は出なかった。

 でも胸の中で、二年間刺さっていた何かが、静かに抜けていくような気がした。

 撮れなかった一枚の代わりにはならなかった。

 澄江の横顔は、澄江だけのものだった。

 でも——撮れた。

 また、撮れた。

 それでよかった。

 それだけで、よかった。


 ひかりが帰った後、義人は居間に一人で座っていた。

 カメラを膝の上に置いて、窓の外を見ていた。

 雪はまだ降っていた。

 静かに、音もなく。

 澄江のことを思った。

 長い闘病の間、澄江は一度も「なぜ私が」と言わなかった。

 怒りも、嘆きも、見せなかった。

 ただ穏やかに、一日一日を生きた。

 義人が撮ろうとしたあの朝の横顔も、そういう顔だった。

 雪を見て「きれい」と言える人だった。

 どんな状況でも、きれいなものをきれいと言える人だった。

 ひかりも、そういう子だった。

 義人にはわからなかった。

 それが偶然なのか、何か深いものがそうさせているのか。

 でも、わからなくていいとも思った。

 大切なのはそこではなかった。

 あの瞬間、窓の外の雪を見て「きれい」と言ったひかりの横顔が、義人の手をカメラへ向かわせた。

 それだけが、本当のことだった。


 義人はカメラを持って、外に出た。

 雪の中に立った。

 コートも着ずに、そのまま出た。

 空を見上げた。

 雪が顔に落ちた。

 冷たかった。

 でもその冷たさが、久しぶりに体に届いた気がした。


 義人はカメラを構えた。

 降り続ける雪を、撮った。

 一枚、また一枚。

 音もなく降る雪を、白く積もった庭を、隣家の屋根を、灰色の空を。

 シャッター音が、静かな雪の中に響いた。

 三十年ぶりに帰ってきたような気がした。

 写真家として生きてきた場所に、ようやく帰ってきた気がした。


 その日撮った写真の中に、一枚だけ、不思議な写真があった。

 庭の雪を撮ったつもりだった。

 でもその一枚には、雪の中に、人の輪郭のような光の滲みが写っていた。

 誰もいないはずの庭に。

 光の滲みは、こちらを向いているような気がした。

 窓の外の雪を見て、「きれい」と言っていたときの、あの表情で。

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