さよならは言わない
この宇宙に起きたすべての出来事は、消えることなく、
波として、どこまでも広がり続けている。
愛した人の声も、笑顔も、温かさも、夢も——
すべては、宇宙の中に、永遠に、在り続ける。
【一】
少し、不思議な話をさせてほしい。
物語の外の話。
科学の世界に、「ゼロ・ポイント・フィールド」という概念がある。
量子物理学の言葉で、難しく説明すれば長くなる。
でも、その核心だけを言うなら、こういうことだ。
この宇宙には、すべての場所に遍く広がる「場」がある。
科学者たちはその場を量子真空と呼ぶ。
そしてその場には、宇宙で起きたすべての出来事が、波動として記録されている——と、一部の物理学者たちは考えている。
あなたが誰かに言った言葉も。
誰かがあなたに向けた笑顔も。
手を握ったときの温かさも。
すべては、消えていない。
波として、この宇宙に刻まれ、どこまでも広がり続けている。
証明された理論ではない。
まだ仮説の段階にある考え方だ。
だからこれを「本当のこと」だと言うつもりはない。
ただ——こういう考え方もある、ということを、知っていてほしい。
【二】
十の物語を、読んでいただいた。
それぞれの物語の中で、人々は大切な存在と再会した。
卒業式の前夜、校庭の桜の木の下で。
閉店する定食屋の厨房で。
霜の朝、坂道の途中の公園で。
命日の深夜、鳴り続けるスマホの向こうで。
祖父の和室、碁盤を挟んで。
京都の小さな花屋の、奥の席で。
海沿いの公園のベンチで、四歳の女の子の言葉の中に。
雨の神保町の古書店で、見知らぬ若者の文体の中に。
十二月の発表会の夜、八歳の少年の指先から。
雪の降る庭で、一枚の写真の光の滲みの中に。
どの再会も、証明はできない。
偶然だったかもしれない。
思い込みだったかもしれない。
でも、拓海には確かに父の肩が揺れた。
孝には確かに出汁の香りが満ちた。
麻衣には確かに温度が伝わった。
遥には確かに夜の台所の音が届いた。
颯太には確かに白石が応えた。
千尋には確かにスズランを差し出す手の温もりがあった。
里奈には確かに「紺色の本」と言い当てられた。
孝之には確かに同じ文体の癖があった。
和音には確かにセレナーデが届いた。
義人には確かに光の滲みが写った。
それぞれの魂が、それぞれの形で、確かに受け取った。
それで十分だと、私は思う。
【三】
ゼロ・ポイント・フィールドの話に戻ろう。
この概念が教えてくれることが、もう一つある。
波は、重なる。
宇宙に刻まれた波動は、広がり続けながら、別の波と出会うことがある。
遠い場所で、遠い時間で、でも確かに出会って、共鳴する。
物理学では、それを「干渉」と呼ぶ。
でも人の魂の言葉で言い換えれば、こうなるかもしれない。
愛した人は、消えていない。
その人の声も、笑顔も、温かさも、夢も、約束も——すべては波として宇宙に刻まれ、広がり続けている。
そしていつか、あなたの「そば」を通るとき、あなたの魂がそれを感じ取る。
坂道で、台所で、電話口で、碁盤の前で、花屋で、公園で、古書店で、発表会の夜に、雪の庭で。
感じ取れるかどうかは、あなたの魂次第だ。
でも波は、ずっとそこにある。
消えることなく、どこまでも。
【四】
人はなぜ生まれ、どこへ行くのか。
なぜ愛した人と別れなければならないのか。
なぜそれでも、また会えることがあるのか。
答えは、誰にもわからない。
科学者も、哲学者も、宗教家も、詩人も、それぞれの言葉でその問いに近づこうとしてきた。
でも誰も、完全な答えを持っていない。
それでいいと、私は思う。
答えのない問いと向き合いながら生きることが、人間であることの一つの形だから。
ただ、一つだけ言えることがある。
大切な人との時間は、消えない。
どんなに短くても、どんなに遠くても、その時間に宿った愛情は、波として宇宙に刻まれ、あなたの中に、そして宇宙のどこかに、永遠にある。
だから——さよならは、言わない。
終わりではないから。
形が変わるだけだから。
波は、続くから。
あなたにも、会いたい人がいるだろう。
もう会えないと思っている人が。
でも、少しだけ耳を澄ませてほしい。
日常のさりげない瞬間に。
見知らぬ人の笑い方に。
風の中の匂いに。
子供の無邪気な一言に。
降り続ける雪の白さに。
もしかしたら、そこにいるかもしれない。
あなたの大切な人が。
波として、光として、温度として、音として。
形を変えて、でも確かに、あなたのそばに。
この宇宙に起きたすべての出来事は、消えることなく、
波として、どこまでも広がり続けている。
愛した人の声も、笑顔も、温かさも、夢も——
すべては、宇宙の中に、永遠に、在り続ける。
さよならは言わない。
(完)




