セレナーデ
音楽は、魂の言葉だ。
届けられなかった旋律は、次の生で、また誰かの指先から流れ出す。
そして今度こそ——ちゃんと届く。
【一】
十二月の夜は、静かだった。
相川和音は教室のピアノの前に座って、鍵盤を見つめていた。
地方都市の小さな音楽教室。
自宅の一室を改装した、十畳ほどの部屋だった。
壁に楽譜が並び、窓際に古いアップライトピアノが据えられている。
和音がここで教えるようになって、もう十五年になる。
明日はクリスマス前夜の発表会だった。
生徒たちがそれぞれ一曲ずつ弾く、小さな発表会。
地元のホールを借りて、毎年十二月に開いていた。
和音は発表会が近くなると、毎年この夜だけ一人でピアノの前に座った。
兄のことを、思い出すために。
相川誠は、五年前の十二月に逝った。
四十八歳だった。
兄はアマチュアのピアニストだった。
本職は会社員だったが、ピアノだけは子供の頃から続けていた。
和音に教えてくれたのも兄だった。
発表会のたびに舞台に立って、緊張しながら、それでも最後まで弾き続けた。
兄が最後に練習していた曲があった。
シューベルトの「セレナーデ」。
夜に、愛する人の窓辺で歌われる曲。
静かで、切なくて、でも温かい旋律。
兄は発表会の三ヶ月前から練習していた。
和音が聞くと「誰かに届けたい曲があってな」と言って、照れくさそうに笑った。
誰に届けたいのか、最後まで教えてくれなかった。
その発表会の二週間前、兄は倒れた。
脳の病気だった。
手術をしたが、目を覚まさなかった。
セレナーデは、誰にも届かなかった。
和音は兄の遺品の中から、楽譜を一冊引き取った。
「セレナーデ」の楽譜だった。
あちこちに書き込みがあった。
テンポの指示、強弱の記号、兄が自分のために書いた言葉が、鉛筆で細かく入っていた。
和音はその楽譜を、ピアノの譜面台の引き出しの奥にしまった。
開けられなかった。
開けると、兄がそこにいなくなってしまう気がして。
五年間、そのままにしていた。
【二】
颯が和音の教室に来たのは、三年前だった。
五歳のときから通っていた子で、今年の春に八歳になった。
小柄で、黒い瞳の、物静かな男の子だった。
親に言われて始めたピアノを、最初は嫌々弾いていたのに、いつの間にか一番熱
心な生徒になっていた。
颯の弾き方には、特徴があった。
楽譜をよく見る子だった。
一音一音、楽譜と鍵盤を確認しながら弾く、丁寧な弾き方をした。
それが颯のやり方だった。
発表会の二日前、最後の練習の日だった。
颯は自分の曲を一通り弾き終えて、椅子に座ったまま、ぼんやりと鍵盤を見ていた。
「どうした?」と和音は聞いた。
颯は答えなかった。
しばらくして、「先生」と颯は言った。
「なに?」
「この曲、弾いていい?」
颯の指が、鍵盤の上に置かれた。
和音は颯の手を見た。
そして——息を飲んだ。
颯の指が、動き始めた。
楽譜を見ていなかった。
譜面台には、颯が練習してきた別の曲の楽譜が開いたままだった。
颯はそちらに目を向けていなかった。
ただ鍵盤を見て、指を動かしていた。
最初の一音が、部屋に響いた。
和音の体が、固まった。
聞いたことがあった。
その音の始まりを。
五年間、耳の奥に残っていた音の始まりを。
シューベルトの「セレナーデ」だった。
【三】
颯の指が、旋律を辿っていった。
八歳の小さな手が、静かに、でも確かに、あの旋律を弾いていた。
完璧ではなかった。
所々で指がつかえた。
音が少し濁った。
でもそれでも、旋律は続いた。
愛する人の窓辺に届けるように、夜の空気に溶けていくように、あの旋律が、この小さな教室に流れていた。
和音は動けなかった。
椅子に座ったまま、颯の背中を見ていた。
颯はこの曲を知らないはずだった。
教えていなかった。
楽譜も見ていない。
なのに颯の指は、兄が練習していたあの旋律を、ゆっくりと、たどっていた。
兄の書き込みを思い出した。
楽譜に鉛筆で書かれていた言葉。
「もっとゆっくり」
「ここで息を吸う」
「最後まで諦めるな」。
兄が自分のために書いた言葉が、颯の指の動きの中に、あった。
颯のテンポが、兄のテンポと、同じだった。
旋律が、中ほどまで来たとき、颯の指が止まった。
颯は鍵盤を見たまま、少し俯いた。
「……続きが、わからなくなった」
小さな声で言った。
和音は立ち上がった。
ピアノの引き出しを開けた。
五年間、開けられなかった引き出しを。
兄の楽譜を取り出した。
颯の前に、置いた。
颯は楽譜を見た。
書き込みだらけの、古い楽譜を。
「この楽譜の通りに弾いてみて」
和音は言った。
声が震えそうになった。
震えないように、ゆっくりと言った。
颯はうなずいた。
楽譜に目を向けて、続きを弾き始めた。
【四】
セレナーデが、最後まで流れた。
颯の小さな手が、兄の書き込みを辿りながら、最後の一音まで弾いた。
音が消えた。
部屋が静かになった。
十二月の夜の静けさが、戻ってきた。
颯は鍵盤から手を離して、和音を見た。
「先生、泣いてる?」
「……ちょっとね」
和音は目を拭った。
「この曲、誰の曲?」
「シューベルトっていう人が作った曲。セレナーデっていうの」
「セレナーデ」と颯は繰り返した。
「好きかも、この曲」
「なんで急に弾いたの?」
颯は少し考えてから言った。
「わからない。ピアノ見てたら、指が動きたがってた」
和音は颯を見た。
八歳の男の子の顔だった。
兄とは似ていなかった。
目の形も、輪郭も、声も、何もかも違った。
でも——「指が動きたがってた」という言い方が。
兄がよく言っていた言い方だった。
「この曲、手が覚えてるんだよ」と言いながらピアノに向かっていた、あの兄の言い方が。
和音は颯の頭に、そっと手を置いた。
「ありがとう」
颯は不思議そうな顔をした。
でも何も聞かなかった。
翌夜、発表会が始まった。
地元のホールに、生徒たちの家族が集まった。
プログラムが進んで、颯の番が来た。
颯は舞台に出てきて、ピアノの前に座った。
本来の曲を弾くはずだった。
ずっと練習してきた曲を。
でも颯は、和音を見た。
袖に立っていた和音を、真っ直ぐに見た。
和音はうなずいた。
颯は鍵盤に手を置いた。
最初の一音が、ホールに響いた。
セレナーデだった。
客席がざわめいた。
プログラムと違う曲だったから。
でもそのざわめきは、すぐに静まった。
八歳の少年の指から流れ出す旋律が、ホールの空気を変えていったから。
和音は袖に立ったまま、目を閉じた。
兄の姿が浮かんだ。
発表会のたびに舞台に立って、緊張しながらも最後まで弾き続けた兄。
「誰かに届けたい曲がある」と照れ臭そうに笑った兄。
届けられなかったまま逝ってしまった兄。
今夜、届いた。
五年越しに、この小さなホールに、届いた。
演奏が終わると、客席から拍手が起きた。
颯は立ち上がって、ぎこちなくお辞儀をした。
舞台袖に戻ってきた颯に、和音は何も言わなかった。
ただ、颯の小さな肩に手を置いた。
颯もそれだけで、わかったようだった。
二人で、客席の拍手が収まるのを、並んで聞いた。
その夜、和音は兄の楽譜を譜面台に置いた。
五年間しまったままだった楽譜を、初めて、ちゃんと置いた。
そして自分の手で、セレナーデを弾いた。
最初から最後まで、一人で。
兄の書き込みを辿りながら、兄が届けたかった誰かへ向けて。




