母の手帳
子供は覚えている。
生まれる前のことを、言葉にならない形で。
【一】
八月の海は、まぶしかった。
浜田里奈は実家のアパートの窓から、遠く光る海を見ていた。
神奈川県の海沿いの町。子供の頃から見続けてきた海だった。
夏になるとこうして帰ってくる。
でも今年の帰省は、少し違う理由があった。
母の遺品を、整理するためだった。
母の幸江が逝ったのは、三年前の冬だった。
五十九歳だった。
早かった。
あっという間だった。
里奈はまだ、どこかでそれを受け入れられていない気がしていた。
遺品のほとんどは片付けてあった。
でも一つだけ、どうしても手をつけられないものがあった。
母の手帳だった。
A6サイズの、紺色の手帳。
母は毎年同じ手帳を買って、毎日欠かさず日記をつけた。
几帳面な人だった。
小さな字で、その日あったことを、感じたことを、丁寧に書き続けた。
里奈は逝く前の年の手帳を、引き出しの奥にしまったまま、三年間開けなかった。
今日、初めて開いた。
手帳は十二月の途中まで、びっしりと書かれていた。
母らしい、几帳面な字で。
天気のこと、体の調子のこと、テレビで見たこと、里奈から電話があったこと。
ささやかな日常が、一日も欠けることなく並んでいた。
里奈は一ページずつ、ゆっくりと読んだ。
十一月のある日のページに、こんな一文があった。
「里奈から電話。元気そうでよかった。私もまだまだ書くことがある。白いページをもったいないままにしておくのは、私の性に合わない」
里奈は手を止めた。
白いページをもったいないままにしておくのは、性に合わない。
母らしい言葉だった。
几帳面で、丁寧で、何事も途中で終わらせることを嫌った母。
日記を一日も欠かさなかった母。
そういう人だった。
里奈は続きを読んだ。
十二月に入ると、体の記述が増えた。
「今日は少し楽だった」
「夜中に目が覚めた」
「病院で先生に話を聞いた」。
母がどれほど一人で抱えていたかが、字の間から滲み出ていた。
そして十二月の十七日、そのページで日記は終わっていた。
翌日のページは、白紙だった。
その次も、白紙。
十二月の終わりまで、一月も、二月も——残りのページがすべて、白いままだった。
里奈は白紙のページを、指でそっと撫でた。
白いページをもったいないままにしておくのは、性に合わない。
その言葉を書いた母が、白いページを残して逝った。
その皮肉が、里奈には痛かった。
書かれなかった言葉の重さが、その白さの中にあった。
【二】
午後、里奈は近所の公園へ出かけた。
海沿いの小さな公園だった。
砂場とブランコと、古いベンチが一つ。
子供の頃、母とよく来た場所だった。
ベンチに座って、手帳をひざの上に置いた。
もう一度、最後のページを眺めたかった。
手帳は表紙を上にして、膝の上に伏せてあった。
紺色の表紙が、八月の光を受けていた。
砂場に、女の子が一人いた。
四歳くらいだろうか。
麦わら帽子をかぶって、一人で砂をすくっては、バケツに入れていた。
少し離れたベンチで、母親らしい女性がスマホを見ていた。
里奈は手帳を開いた。
そのとき、砂場から声がした。
「おねえさん、なに読んでるの?」
顔を上げると、女の子がベンチの前に立っていた。
砂だらけの手を前に出して、不思議そうに里奈を見ていた。
「日記だよ」と里奈は答えた。
「にっき?」
「毎日、あったことを書く本。大切な人が書いてた本なの」
女の子はしばらく考えてから「見てもいい?」と言った。
里奈は少し迷ってから、手帳を見せた。
白いページを開いて、差し出した。
手帳の表紙は里奈の手のひらで隠れていた。
女の子に見えているのは、白紙のページだけだった。
女の子は手帳を覗き込んだ。
「まっしろだね」
「うん。何も書いてないの」
女の子は少し首を傾けて、それからこう言った。
「ねえ、白いページ、もったいないよね」
里奈の手が、止まった。
胸の奥で、何かが動いた。
さっき読んだばかりだった。
母の手帳の、十一月のあのページを。
白いページをもったいないままにしておくのは、性に合わない——母が書いた、あの言葉を。
「……何て言ったの?」
里奈は女の子を見た。
「もったいないよね、白いページ」と女の子はもう一度言った。
「書かないと、もったいないよ」
里奈の胸が、静かに揺れた。
この子に、手帳の話はしていない。
母の話もしていない。
ただ「日記」と「大切な人が書いてた本」と言っただけだった。
なのにこの子は——白いページを見て、母と同じ言葉を言った。
偶然かもしれなかった。
四歳の子が思ったことを口にしただけかもしれなかった。
でも里奈には、偶然に思えなかった。
「そうだね」と里奈は言った。
声が少し震えた。
「もったいないね」
女の子は満足そうにうなずいて、また砂場に戻っていった。
【三】
女の子の名前は、ことはといった。
しばらくして、母親が迎えに来た。
「ことは、そろそろ帰るよ」と声をかけると、ことははベンチの里奈を振り返った。
「またね」とことはは言った。
「うん、またね」
母親が会釈して、ことはの手を引いた。
二人が公園の出口に向かいかけたとき、ことはが突然、立ち止まった。
振り返って、里奈を見た。
「ねえ」
「なに?」
ことはは少し考えるような顔をして、それから言った。
「こんいろの本、大事にしてね」
里奈は息を飲んだ。
手帳は里奈の手の中にあった。
表紙は、ずっと里奈の手のひらで隠れていたままだった。
ことはに見えていたのは、白紙のページだけだった。
それなのに——ことはは「紺色の本」と言った。
里奈は動けなかった。
ことはは何も気にした様子もなく、母親の手を引っ張って、公園を出ていった。
小さな麦わら帽子が、角を曲がって、消えた。
里奈はベンチに座ったまま、手帳を見た。
紺色の表紙を。
ことはには、見えていなかった。
それでも、ことはは知っていた。
里奈はその夜、アパートに戻って、母の手帳をもう一度開いた。
考えた。
輪廻転生、という言葉を、里奈は信じていたわけではなかった。
小学校の教師として、どちらかといえば現実的な人間だった。でも——。
世界には、説明のつかないことがある。
里奈が教師になって十年、子供たちと接してきた中で、何度かそう感じたことがあった。
子供は大人より、何か深いところに繋がっているような気がすることが。
理屈ではなく、魂の奥から何かを知っているような子が、時々いる。
ことははそういう子だったのかもしれない。
あるいは——もっと別の何かが、ことはの口を借りて、里奈に伝えたかったのかもしれない。
白いページをもったいないままにしておくのは、性に合わない。
紺色の本、大事にしてね。
二つの言葉が、里奈の胸の中で重なった。
確かめる方法は、なかった。
でも、確かめなくてもいいとも思った。
伝わったのだ。
母が書けなかった言葉が、違う口を借りて、ちゃんと里奈に届いた。
書いてね、と。白いページを、埋めなさい、と。
【四】
里奈は引き出しから、ペンを取り出した。
母の手帳の、白いページを開いた。
十二月十八日のページ。
母が書けなかった日。
里奈はペンを持ったまま、しばらく止まった。
何を書けばいいか、わからなかった。
でも書かなければならないと思った。
母の代わりに書くのではない。
里奈自身のことを、書く。
母が続けようとしていたものを、里奈が引き継ぐ。
里奈はゆっくりと書き始めた。
今日、公園でことはという女の子に会った。
四歳で、麦わら帽子をかぶっていた。
この白いページを見て、「もったいないよね」と言った。
それから、表紙を見ていないのに「紺色の本、大事にしてね」と言って帰っていった。
書きながら、涙が落ちた。
止めなかった。
涙がページに落ちないように、顔を少し横に向けながら、書き続けた。
お母さん、と里奈は心の中で言った。
ことはちゃんが教えてくれたよ。
白いページは、もったいないって。
だから書く。
これからも書く。
お母さんが書き続けたように、私も書く。
ペンが動いた。
言葉が出てきた。
止まらなかった。
里奈が書き終えたのは、深夜だった。
十二月十八日から始まって、今日の日付まで、空白だったページが埋まっていた。
母の字とは違う、里奈の字で。
でも同じ手帳の中に、二人の言葉が続いていた。
里奈は手帳を閉じた。
紺色の表紙を、両手でそっと包んだ。
窓の外に、海が見えた。
夜の海は暗かったけれど、月の光が水面に細く伸びていた。
里奈は窓を開けた。
潮の匂いがした。
子供の頃から知っている、この町の夏の匂いだった。
母も、この匂いの中で育った。
この窓から、同じ海を見た。
里奈はその匂いを、深く吸い込んだ。
翌日、里奈は文房具屋で新しい手帳を買った。
母と同じ、A6サイズの、紺色の手帳を。
東京に戻る前に、公園に寄った。
ことははいなかった。
砂場は空っぽだった。
里奈はベンチに座って、新しい手帳を開いた。
最初のページに、今日の日付を書いた。
それから一行だけ書いた。
今日から、書き始める。
それだけだった。
でも里奈には、それで十分だった。
ページを閉じると、風が吹いた。
海からの風が、手帳のページをそっとめくった。
白いページが、風の中でさわさわと揺れた。
たくさんの白いページが、これから書かれるのを待っていた。




