祖父の碁盤
魂は、未完の約束のある場所に引き寄せられる。
そして約束が果たされたとき、魂は静かに、次の旅へと向かう。
【一】
九月の縁側は、まだ暑かった。
原田颯太は、祖父の和室に一人で座っていた。
岐阜の古い民家。柱が黒ずんで、畳が少し沈む、築六十年の家だった。
縁側から庭が見えた。
祖父が手入れしていた柿の木が、重そうに実をつけていた。
もう誰も手入れしないのに、今年も実がなっていた。
颯太の前に、碁盤があった。
黒ずんだ脚付きの碁盤。
祖父が長年使っていたものだった。
表面に無数の打ち傷があって、長い時間の重さが染み込んでいた。
碁笥が二つ、碁盤の脇に置かれていた。
白石と黒石が、それぞれ静かに収まっていた。
明日は祖父の一周忌だった。
颯太は今日、母より一日早く実家に来ていた。
一人で、この部屋に来たかった。
祖父、原田庄吉が逝ったのは、颯太が中学三年の秋だった。
享年八十一歳。
穏やかな最期だったと母は言った。
颯太が後悔しているのは、碁のことだった。
颯太が小学五年のとき、祖父が碁を教えてくれると言い出した。
「男は碁を打てんといかん」と祖父は言って、この碁盤の前に颯太を座らせた。
ルールから教えてもらった。
石の置き方、取り方、陣地の考え方。
颯太は最初、面白いと思っていた。
でも三ヶ月ほどで、飽きてしまった。
友達と外で遊ぶほうが楽しかった。
ゲームもしたかった。
碁は難しくて、なかなか強くならなかった。
「じいちゃん、今日はいいや」と言うことが増えて、そのうちほとんど来なくなった。
祖父は何も言わなかった。
「また教えてやる」と、会うたびに笑って言うだけだった。
その言葉を、颯太は聞き流していた。
祖父が倒れて、もう碁を打てる体ではなくなってから、颯太は初めて気づいた。
あの「また教えてやる」という言葉が、どれほど待ち続けた言葉だったかを。
でも、遅かった。
颯太は碁笥の蓋を開けた。
黒石が入っていた。
一粒取り出して、指の腹で触れた。
つるりとした感触。
ひんやりとした重さ。
祖父が何千回、何万回と触れてきた石だった。
その指の跡が、石に染み込んでいるような気がした。
颯太は碁盤を見つめた。
十九路盤。
縦横十九本の線が、盤上に整然と広がっていた。
三百六十一の交点。祖父はここで、何人と、何局打ってきたのだろう。
颯太はゆっくりと、黒石を一粒、碁盤の上に置いた。
コン、という乾いた音が、静かな和室に響いた。
【二】
石を置いてから、颯太はしばらく動かなかった。
何をしたいのか、自分でもよくわからなかった。
対局できるほど打ち方を覚えていない。
ただ、この碁盤の前に座りたかった。
祖父がいつも座っていたこの場所に。
縁側から、風が入ってきた。
柿の葉が揺れる音がした。
庭の奥で、虫が鳴いていた。
九月の午後の、静かな音だった。
颯太は対面の座布団を見た。
祖父がいつも座っていた場所。
そこは空っぽだった。
当たり前だ。
でも颯太はなぜか、その空っぽから目が離せなかった。
そのとき——。
対面の座布団が、わずかに沈んだ。
颯太は目を瞬かせた。
見間違いかもしれなかった。
光の加減かもしれなかった。
でも確かに、誰かが座ったときのように、座布団の中央がゆっくりと、わずかに凹んだ。
颯太は動けなかった。
息を止めて、対面を見つめた。
誰もいなかった。
でも、何かがあった。
空気の質が変わっていた。
さっきまでの、ただ空っぽな対面ではなかった。
そこに、何かの重さがあった。
存在があった。
颯太の心臓が、静かに、しかし確かに、速くなった。
白石の碁笥の蓋が、動いた。
颯太は息を飲んだ。
蓋がゆっくりと開いて——白石が一粒、碁盤の上に、静かに置かれた。
コン。
乾いた音が、和室に響いた。
颯太が置いた黒石の、斜め向かいの交点に。
颯太はその白石を、しばらく見つめた。
震えていた。
手が、ではなかった。
胸の奥の、深いところが。
じいちゃん、と颯太は思った。
声には出なかった。でも確かにそう思った。
対面の座布団の重さが、少し増した気がした。
【三】
颯太は黒石を一粒、手に取った。
指が震えた。
どこに置けばいいか、わからなかった。
ルールは断片的にしか覚えていない。
でもそんなことは関係なかった。
颯太は石を置いた。
コン。
しばらくして、白石が置かれた。
コン。
また颯太が置いた。
また白石が応えた。
二人の対局が、静かに続いた。
颯太には、戦略も読みもなかった。
ただ、感じるままに石を置いた。
白石はいつも、少し間を置いてから、静かに応えた。
急かさなかった。
待った。颯太がどこに置いても、丁寧に応えた。
祖父の打ち方だった。
颯太が小学五年のとき、祖父はいつもそうだった。
颯太がどんなに変な手を打っても、笑わなかった。
ただ静かに、白石を置いた。
「そこか」とも「違う」とも言わなかった。
石だけで語った。
颯太はあの頃、それが少し物足りなかった。
もっと教えてほしかった。
正解を言ってほしかった。
でも今はわかった。
祖父は教えていたのだ。
言葉ではなく、石で。自分で考えろ、と。
石を置くたびに、そう言っていたのだ。
陽が傾いてきた。
縁側から差し込む光が、斜めになって、碁盤の上を照らした。
黒石と白石が、その光の中で静かに輝いた。
颯太は、ふと気づいた。
碁盤の上に、棋譜が生まれていた。
白と黒の石が、盤上に散らばって、一つの形を作っていた。
颯太には読めない形だった。
でも、でたらめではなかった。
何かの意志が、そこにあった。
颯太は紙を探した。
祖父の文机の引き出しに、方眼紙があった。
颯太はそれを取り出して、碁盤の上の石の配置を、一つ一つ書き写した。
黒石の位置を丸で、白石の位置を三角で。手が止まらなかった。
全部写し終えると、対面の重さが、少し軽くなった気がした。
用が済んだ、というより——伝わった、という軽さだった。
【四】
翌朝、母の原田靖子が実家に来た。
颯太は台所で母を迎えて、昨夜のことを話した。
母は黙って聞いていた。
途中で何度か目を細めたが、遮らなかった。
颯太が棋譜を書き写した方眼紙を差し出すと、母はそれを両手で受け取った。
しばらく見つめていた。
「颯ちゃんのこと、ずっと待ってたんやね」
母がつぶやいた。
颯太は答えられなかった。
「じいちゃんね」と母は続けた。
「颯ちゃんが碁から離れてからも、毎年正月になると碁盤を拭いてたんよ。またいつか打てるかもしれないからって。じいちゃんらしいやろ」
颯太は俯いた。
鼻の奥が、じんとした。
毎年正月に碁盤を拭く祖父の姿が、浮かんだ。
颯太が来るかもしれないと思って。
来なくても、来年来るかもしれないと思って。
八十一歳になるまで、ずっと。
「また教えてやる」
あの言葉の重さが、今になって、颯太の胸にずしりと落ちてきた。
一周忌の法要が終わった午後、颯太は再び和室に来た。
碁盤の前に座って、碁笥を開けた。
黒石を一粒、手に取った。
ひんやりとした重さ。
祖父の指の跡が染み込んでいる石。
颯太は石を握ったまま、対面を見た。
空っぽだった。
昨日のような重さは、なかった。
でも颯太は、静かに石を置いた。
コン。
返事はなかった。
白石は、動かなかった。
颯太はそれでよかった。
昨日、約束は果たされた。
祖父は来た。
教えてくれた。
言葉ではなく、石で。
それで十分だった。
颯太はもう一粒、黒石を取って、碁盤に置いた。
今度は自分だけで。
一人で打ち始めた。
黒石だけで、盤上に石を並べた。
戦略も何もない。
ただ石を置く練習だった。
でも颯太には、それが今できる一番のことだった。
コン、コン、コンと、石の音が、静かな和室に響いた。
その冬、颯太は囲碁教室に通い始めた。
週に一度、地域の公民館でやっている、老人が多い小さな教室だった。
颯太は一番若い生徒だった。
先生は七十代の老人で、祖父と同じように、静かに石で語る人だった。
颯太は毎週通った。
上手くはなかった。
でも石を置くたびに、あの九月の午後を思い出した。
対面の重さを。
白石が静かに応えてくれたことを。
春になった頃、颯太は初めて先生に勝った。
帰り道、颯太はスマホを取り出して、母に短いメッセージを送った。
「今日、初めて勝った。じいちゃんに報告しといて」
すぐに返事が来た。
絵文字一つだった。
涙の顔と、笑顔が、並んでいた。




