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さよならは言わない ―あなたはいつも、すぐそこにいる― 人はどこから来てどこへ行くのか。なぜ、生まれ変わるのか。  作者: かーすけ


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5/11

花屋の奥の席

外見は変わっても、魂の輝きは変わらない。

愛した人の魂は、形を変えて、必ず帰ってくる。

渡しそびれたものを、渡しに。

【一】


 四月の京都は、桜でいっぱいだった。

 木村千尋は朝から店の前を掃いて、バケツの水を換えて、仕入れた花を一本ずつ切り戻した。

 毎朝の作業だった。

 二年前から、一人でやっている。


 店の名前は「ハナカゴ」といった。

 細い路地の角にある、小さな花屋だった。

 店の奥に四席だけのカフェスペースがあって、コーヒーと季節の花を一緒に楽しめる店として、地元の人たちに少しずつ知られるようになっていた。

 花屋とカフェを組み合わせたのは、夫の陽介のアイデアだった。

「花を買いに来た人が、そのまま座っていけるようにしたい」

 陽介はそう言って、店の設計図を何度も書き直した。

 棚の高さ、カウンターの位置、奥の席から外が見えるように計算した窓の大きさ。陽介は建築の仕事をしていたから、そういうことが好きだった。

 その陽介が、二年前の春、逝った。

 四十歳だった。

 発見が遅れた。

 手術をしたが、間に合わなかった。

 千尋は三十八歳で、一人になった。


 店を閉めようとは思わなかった。

 不思議なことに、一度もそう思わなかった。

 陽介が設計した棚に花を飾るたびに、陽介がまだここにいるような気がして、それが千尋の支えだった。

 桜の季節だけは、つらかった。

 陽介は桜が好きだった。

 花の中で一番好きだと言っていた。

「散るのがいいんだよ」と陽介は言った。

「ずっとそこにいないから、きれいなんだ」

 千尋はその言葉が、今も好きではなかった。

 ずっとそこにいてほしかった。

 散らないでほしかった。

 でも桜は今年も咲いた。

 千尋は店の前に、白い桜の枝を大きく飾った。

 陽介が好きだったように。


【二】


 老人が店に入ってきたのは、午後の静かな時間だった。

 七十五歳くらいだろうか。

 白髪で、背筋の伸びた、品のある老人だった。

 グレーのジャケットを着て、ゆっくりと店の中を見回した。

 千尋は「いらっしゃいませ」と声をかけた。

 老人は花に目を向けた。

 その目の向け方を見て、千尋は少し止まった。

 花を見る目には、種類がある。

 値段を見る目、贈り物を選ぶ目、なんとなく眺める目。

 でもこの老人の目は、違った。

 花そのものを見ていた。

 花の形を、色を、その一本が持っている時間を、静かに受け取るような目だった。


 陽介と同じ目だった。

 千尋は首を振った。

 重ねてはいけない、と思った。

「奥でコーヒーもお出しできます」と千尋は言った。

 老人は「では」と言って、奥の席へ向かった。

 迷わずに、一番奥の席へ。

 陽介がいつも座っていた席へ。


 千尋はコーヒーを淹れながら、奥の席を見た。

 老人は窓の外を見ていた。

 路地の向こうに、桜の木が見えた。

 陽介が窓の位置を計算したのは、この桜が見えるようにするためだった。

 老人はただ、桜を見ていた。

 何も言わずに、急がずに、ただ静かに。


 千尋はコーヒーカップを持って、奥へ行った。

「どうぞ」

 老人が千尋を見た。

「ここ、いい店ですね」

 それだけ言った。

 千尋は「ありがとうございます」と答えた。

 でも胸の中で、何かが揺れた。

 声ではなかった。

 言葉でもなかった。

 その言い方が——陽介がよく言っていた言い方と、同じだった。

 陽介は千尋の花の飾り方を見るたびに、「ここ、いい店だな」と言った。

 自分たちの店なのに、初めて来た客のように言った。

 それが千尋は好きだった。

 千尋は会釈して、カウンターに戻った。


【三】


 老人はコーヒーを飲みながら、しばらく窓の外を見ていた。

 それから、千尋のほうを向いた。

「白い桜ですね」

「はい。染井吉野より少し遅れて咲くんです」

「白い花は潔い」と老人は言った。

「余計な色がない分、花そのものが見える」

 千尋の手が、止まった。

 陽介が言っていた言葉だった。

 白い花を仕入れるたびに、陽介は同じことを言った。

「白は引き算の色だよ」と。

「余計なものを全部取り除いた先にある色だから、一番正直だ」と。

「花がお好きなんですか」と千尋は聞いた。

「好きというより」と老人は少し考えてから言った。

「花は正直だから、見ていると落ち着くんです。咲くべき時に咲いて、散るべき時に散る。それだけのことを、きちんとやっている」

 千尋は息を吸った。

 散るのがいいんだよ。

 ずっとそこにいないから、きれいなんだ。

 陽介の声が、耳の奥で響いた。

 老人の言葉と、陽介の言葉が、同じ場所から来ているような気がした。

 違う、と思った。この老人は知らない人だ。陽介とは何の関係もない。

 でも——。


 老人が窓の外を見ながら、また言った。

「この店を作った人は、花のことをよくわかっていたんでしょうね」

「……夫が設計しました」

 千尋は静かに答えた。

「今は?」

「二年前に、亡くなりました」

 老人は千尋を見た。

 何も言わなかった。でもその目が——。

 千尋は思わず目を逸らした。

 見てはいけない気がした。

 その目の中にあるものを、見てしまったら、自分が壊れてしまう気がした。


 老人はしばらく黙っていた。

 それからまた、桜に目を向けた。

「続けていらっしゃるんですね、この店を」

「はい」

「そうですか」

 その「そうですか」の言い方が、千尋の胸に落ちた。

 よかった、という意味だった。

 ありがとう、という意味だった。

 ねぎらいでも、同情でもなかった。

 ただ、知っている人が、知っていることを確かめたような、そういう「そうですか」だった。


【四】


 老人が帰り際、カウンターの前に来た。

「一輪、いただけますか」

「どんな花がよろしいですか」

 老人はバケツに並んだ花を見た。

 チューリップ、スイートピー、ラナンキュラス、白い桜の枝。

 老人の目が、白い小さな花の前で止まった。

「これを」

 スズランだった。

 陽介が千尋に初めて花を贈った日、スズランだった。

 付き合い始めの春、陽介は一輪だけのスズランを持ってきて、

「小さいけど、これが一番好きだから」と言った。

 千尋は花を包んだ。

 手が震えそうになった。

 震えないように、丁寧に、紙で包んだ。

 老人に渡すと、老人は受け取らなかった。

「あなたへ」

 老人は静かに言った。

「え?」

「あなたに、差し上げたくて。選んだんです」


 千尋は動けなかった。

 老人がスズランを、千尋の手に、そっと戻した。

 その手が、一瞬、千尋の手に触れた。

 温かかった。

 その温かさを、千尋は知っていた。

 二年間、忘れようとしても忘れられなかった温かさが、そこにあった。


 老人が店を出た。

 千尋はカウンターの中で、スズランを胸に抱いたまま、動けなかった。

 ガラス戸越しに、老人の後ろ姿が見えた。

 路地をゆっくりと歩いていく。

 その背中が、桜並木の向こうへ消えていく。

 千尋は追わなかった。

 追えなかったのではなかった。

 追わなくていいと、わかっていた。

 あの人は、用が済んだのだ。

 伝えたいことを、伝えた。

 渡したいものを、渡した。

 それだけのために、来たのだ。


 千尋はスズランを見た。

 小さな白い花が、いくつも連なって、うつむくように咲いていた。

 陽介が最初にくれた、あの一輪と、同じ花だった。

 千尋の目から、涙が落ちた。

 声を上げなかった。

 ただ、涙だけが、静かに落ちた。

 悲しくなかった。

 悲しいのとは、違った。

 満ちるような、温かさだった。

 伝わった、という確かさだった。


 あの人は——外見は変わっていた。

 年齢も、顔も、声も、何もかも違った。

 でも花への目の向け方が、言葉の選び方が、手の温かさが——魂の奥にある、変わらないものが、ちゃんとここにあった。

 千尋には、わかった。

 理屈ではなかった。証明もできなかった。

 でも、二年間ともに生きた者にしかわからない、その輝きを、千尋の魂が感じ取っていた。


 その日の夜、千尋は店を閉めてから、スズランを一輪挿しに飾った。

 陽介が設計した棚の上に。

 小さな花が、夜の店の中で白く光っていた。

 千尋はカウンターに座って、その花をしばらく見ていた。

 陽介がよく言っていた。

「花は正直だ」と。

 そうだ、と千尋は思った。

 花は正直だ。

 魂も、正直だ。

 外見がどれだけ変わっても、魂は正直に、愛した人のところへ帰ってくる。

 渡しそびれたものを、渡しに。

 言い損ねたことを、伝えに。

 ただそれだけのために。


 翌朝、千尋は久しぶりに新しい花を大量に仕入れた。

 白い花を中心に。

 スズラン、白いラナンキュラス、白い芍薬、白い桜の枝。

 店の前に飾ると、通りがかった人が足を止めた。

 白い花が、四月の光の中で、静かに輝いていた。

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