第40話 五年前の事件
電話を切った後、しばらくスマホを見ていた。
岩倉武継。先日対面したばかりの男が、わざわざ非通知で連絡してきた。電話越しの声には、感情の起伏が一切なかった。怒っているわけでもなく、急いているわけでもなく、ただ淡々と用件を伝えた声。むしろ、その淡々さがリアルだった。
肩のイゾルデが、囁くように告げた。
「凪、面倒な人にゃ」
「面倒な人だな」
「行くにゃ?」
「行くしかないようだ」
「拒否してもいいにゃ」
「そうできたらいいんだがな」
俺は紅茶を一口飲んだ。少しぬるくなっていた。
行きたくない場所に行くのは、得意な方じゃない。ブラック企業時代も、月曜の朝はいつもそうだった。ただ、行かないという選択肢を選ぶと、後がもっと面倒になる。それを十年以上のサラリーマン生活で学んだ。今回も、同じだ。
*
翌日の午前、岩倉の秘書から正式な連絡が入った。
メールではなく電話だった。あの種の人間は、文字で残る記録を嫌う。
『岩倉が、明日の午後六時にお時間を頂きたいと申しております』穏やかな男性の声だった。『場所は、神田の「松濤庵」という料亭です。個室をお取りしております』
「彰彦さん——一条彰彦の同行は」
『恐れ入りますが、当主のご要望は、一対一でお話しすることでございます』
「分かりました。伺います」
『お車を手配いたしますが』
「結構です。自分で行きます」
『承知いたしました』
電話を切ってから、俺は少し考えた。
車を出すと言ったのを断ったのは、足元を握られたくなかったからだ。あの男は、自分のテリトリーに俺を引き込みたがっている。テリトリーの第一歩は移動手段だ。
彰彦さんに電話を入れた。
『凪さん、お聞きしました』彰彦さんの声は冷静だった。『行かれるんですね』
「行きます。同行できないのは聞いていますか?」
『はい。岩倉さんからの要望です』
「彰彦さんとして、注意することはありますか?」
彰彦さんが、少し間を置いた。
『岩倉さんは、約束を破る人ではないです。料亭の中で、物理的に危険なことが起きる可能性は低い。ただ、言葉では何でも引き出そうとしてきます。約束をする前に、必ず一度、息を吸ってください』
「分かりました」
『それから、もう一つ』
「はい」
『岩倉さんが急進派になった理由を、私は知りません。ただ、新貴族を潰したい理由が、政治的なものだけではないという話は聞いたことがあります』
俺は黙って聞いた。
「個人的な何か、ということですか?」
『断定はできません。ただ、心の隅に置いておいてください』
電話を切って、俺はしばらく窓の外を見た。
彰彦さんが「断定できない」と前置きして話す情報は、たいてい、ほぼ確定している情報だ。あの人はそういう話し方をする。
*
翌日の夕方、俺は神田に向かった。
六本木から神田までは、地下鉄で三十分ほどだった。スーツに着替え、仮面は持たない。今夜は神楽凪として行く。岩倉が会いたいのは仮面の魔神様ではなく、神楽凪という人間だ。
料亭「松濤庵」は、神田の路地裏にあった。
看板は控えめで、外から見れば普通の古い日本家屋にしか見えない。ただ、玄関の打ち水と、暖簾の繊維の質感だけで、外と中の格が違うのが分かった。こういう場所に出入りすることは、ブラック企業時代には一度もなかった。十七歳の身体で来ると、なおさら場違いに感じる。
暖簾をくぐると、和服の女性が深く頭を下げた。
「神楽様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました」
案内された個室は、八畳ほどの座敷だった。床の間に掛軸が一つ。卓には、まだ何も並んでいない。
「お先にお越しいただいておりまして、申し訳ございません」女性が告げた。「お当主様は、もうすぐお越しになります」
「お待ちします」
女性が下がって、俺は座布団に座った。今日は正座を諦めて、最初から胡座に近い形で座った。岩倉が来た時に立ち上がれる程度の崩し方だ。
肩のイゾルデが、囁いた。
「凪、ここ高そうにゃ」
「高い。一人五万くらいだと思う」
「一人五万にゃ?」
「料亭ってのは、そういう場所だ」
「凪のおごりじゃないにゃ?」
「岩倉さんが招待だから、岩倉さんが払う」
「助かったにゃ」
俺は内心で苦笑した。
肩のイゾルデは、五万円が高いか安いかは分かる。ただ、ここの五万円が「料金」ではなく「席料」だということは、まだ分からない。料亭の値段は、料理の値段じゃない。話す場所の値段だ。岩倉はその席料を払って、俺を呼んでいる。
ふすまの向こうから、足音が近づいてきた。
迷いのない足音。一歩の幅が一定で、軍隊式の歩き方だ。襖の前で止まり、一拍。
襖が、ゆっくりと開いた。
「お待たせした」
岩倉武継。
今日は和装だった。深い藍色の着物。京都で見た三つ揃えのスーツとは違うが、背筋の真っ直ぐさは変わらなかった。座敷に入って、卓を挟んで俺の正面に座った。
女性が銚子と杯を運んできて、岩倉の前に置いた。岩倉は手をつけず、女性が下がるのを待ってから口を開いた。
「神楽くん、来てくれてありがとう」
「いえ」
「酒は」
「飲みません。十七歳なので」
岩倉が、わずかに目を細めた。それが、今日彼が見せた最初の表情の動きだった。
「中身は違うんだろう」
「中身でも、今夜は飲まない方がいいと思っています」
「賢明だ」
岩倉が、自分の杯にだけ酒を注いだ。
俺は黙って見ていた。岩倉がゆっくりと一口飲んで、杯を置いた。
「単刀直入に言う」岩倉が告げた。「君の力が必要だ」
「先日、組む気はないと申し上げました」
「覚えている。だから、組まなくていい」
「……というのは」
「協力すればいい。指揮命令系統は不要だ。君の判断で動いてくれていい。ただ、動く方向が、こちらの動く方向と一致していれば、それで十分だ」
俺は短く息を吸った。
彰彦さんが言った通りだ。約束をする前に、必ず一度、息を吸え。
「具体的には、どういう協力ですか?」
「平野翔太、という探索者を知っているか?」
「名前は」
「あの男が、新貴族の中で頭角を現してきている。殺人配信に近いことを、すでに何度かやっている。証拠は揃いつつあるが、決定的な一撃が足りない」
「決定的な一撃、というのは」
「黒猫ちゃんねるの仮面の魔神様が、平野の動きを配信で告発する。それで世論が動く。世論が動けば、政府も動く。政府が動けば、新貴族は崩れる」
岩倉の言葉には、論理の隙がなかった。
ただ——その論理を聞きながら、俺は別のことを考えていた。
「岩倉さん」
「はい」
「俺が配信で平野翔太を告発したら、その後、何が起きると思いますか?」
「世論が動く」
「世論が動いて、政府が動いて、新貴族が崩れる。そこまでは岩倉さんの想定通りだと思います。ただ、その後です」
俺は岩倉を見た。
「新貴族が崩れた後、五大華族はどう動きますか?」
岩倉が、しばらく俺を見返した。
「……日本の秩序を、立て直す」
「その秩序の中で、俺はどういう位置に置かれますか?」
「君は自由だ。組み込まれることはない」
「組み込まれないと言うのは、簡単です。ただ、配信で世論を動かした人間は、その世論の持ち主として扱われます。五大華族が秩序を立て直すとき、その世論を持っている俺を、本当に放っておけますか?」
岩倉が、また少し黙った。
「……君は、よく考えるな」
「ブラック企業で十年以上、自分の身を守る考え方を仕込まれました。仕事の質より、組織の中での身の置き方の方が、はるかに重要だった」
「皮肉な経験だ」
「ええ。でも、その経験が役に立つとは思っていませんでした」
岩倉が、わずかに笑った気配があった。京都で見た冷たい目元の、わずかな緩み。それが、今夜の岩倉の二度目の表情の動きだった。
「神楽くん」
「はい」
「私が新貴族を潰したい理由を、聞かないのか?」
「聞いていいんですか?」
「言わない。ただ、君が聞かないなら、私の方から少しだけ話そうと思っていた」
俺は黙って聞いた。
「私には、息子がいた。一人だ。五年前、十八歳でダンジョンに入って、戻ってこなかった」
「……」
「事故ではなかった。新貴族の連中が、息子を巻き込んだ。証拠は今もない。ただ、私はそう確信している」
俺は、何も答えなかった。
答えるべき言葉が見つからなかった。彰彦さんが「断定できない」と前置きしたものの正体が、これだったのだろう。
「同情は要らない」岩倉が告げた。「ただ、私が急ぐ理由を、知っておいてほしかった」
「分かりました」
「協力できそうか?」
「すぐには、答えられません」
「分かった」
岩倉が、また杯を取った。今度はゆっくりと、しかし飲み干した。
「料理を運ばせる」岩倉が告げた。「答えは、今夜じゃなくていい」
俺は短く頷いた。
料理を待つ間、二人は何も話さなかった。
ただ、何も話さない時間が、不思議と気まずくはなかった。岩倉という男の輪郭が、京都で見たときよりも、わずかに違って見えていた。急進派で、強硬で、駒を欲しがる権力者——その全部が間違いではない。ただ、それだけではない人間だった。
*
夜十時、料亭を出た。
神田の路地は静かだった。ネオンの光が、湿った石畳に滲んでいる。
肩のイゾルデが、ようやく口を開いた。
「凪、疲れたにゃ?」
「疲れた」
「岩倉さん、思ったほど嫌な人じゃなかったにゃ」
「嫌な人じゃない。ただ、付き合うと面倒な人だな」
「協力する?」
「今夜の話だけなら、しない」
「今夜の話、だけなら?」
俺は少しの間、答えなかった。
悠々自適に生きたいだけなんだけどな、と独り言を漏らしそうになるのを、今日は止めなかった。声に出した。岩倉の話を聞いた後では、止めるのが難しかった。
「悠々自適に生きたいだけなんだけどな」
「凪、今日二回目にゃ」
「今日は二回目を許せ」
「いいにゃ」
俺は地下鉄の駅に向かって歩いた。
岩倉武継の話には、答えが出ていない。すぐに出る種類の答えではない。ただ、岩倉の目の中にあった、五年前に止まったままの時間のこと——それが、しばらく頭から離れそうにない。




