第41話 新貴族、再び動き出す
翌朝、紅茶を淹れた。
スカイクレスト六本木のペントハウスから眺める東京タワーは、いつも通りに赤く光っていた。何も変わっていない景色だ。ただ、見ているこちらの中では、昨夜の岩倉の話が、まだ消化されないまま漂っていた。
五年前、十八歳でダンジョンに入って戻ってこなかった息子。
事故ではない、と岩倉は告げた。証拠はない、とも告げた。
俺はティーカップを傾けて、ゆっくり飲んだ。
本来ならばワインを片手にこの絶景を楽しんでもいいはずだが、今の体は十七歳。馬鹿正直に禁酒する必要はないと思うが、もしこの体が成長途中だとしたらと思うと、優雅に酒を飲む気になれない。
岩倉の件だが、答えは出ていない。動くべきか、動かないでおくべきか。岩倉の言う通り配信で告発するのが正しいのか、それとも違う方法があるのか。
ただ——動かないにしても、知らないままでいるのは違う、と思った。新貴族の残党である平野翔太という男が何をしているのか。それを自分の目で確かめないことには、何の判断もできない。
「まったく、新貴族というのは厄介なやつらだな」
肩のイゾルデが、囁いた。
「凪、何か決めたのかにゃ?」
「決めてない」
「決められないのかにゃ?」
「ああそうだ。判断するには情報が足りない。だから、まず情報を集めることからはじめる」
「ボクの好きな順番にゃ」
「お前、情報集めとか好きだったのか?」
「好きにゃ。黙って静観しているよりは、はるかに好きにゃ」
俺は内心で苦笑した。
イゾルデは戦闘ではあれだけ動くくせに、日常では結構な怠け者だ。それでも「静観しているよりは、何かに向かう方が好き」というのは、考えてみればイゾルデらしい台詞だった。
情報といえば、セントアーリア公国のエルマキシム大公とダンジョン庁の癒着を暴き、腐敗を一掃したあの人に頼むのが一番だろう。
俺はスマホを取って、如月透の番号を出した。
*
呼び出し音が二回鳴って、如月が出た。
『神楽さん、おはようございます』
「おはようございます。少し、お時間いただけますか?」
『どうぞ。ちょうど私からもお伝えしたいことがありました』
「平野翔太、という探索者について、知っていることを教えてほしいんです」
短い沈黙があった。電話越しの沈黙が、明確に意味を持つ種類の沈黙だった。
『——岩倉さんから、何か?』
「昨夜、お会いしました」
『なるほど』如月が短く息を吐いた。『私からもお伝えしたかったのは、まさに彼のことです』
「彼の動向ですか?」
『はい。ここ二ヶ月、平野翔太と彼のパーティー「血脈の誓い」の周辺で、複数の探索者が消息不明になっています』
俺は紅茶を置いた。
消息不明、という言葉の輪郭が、頭の中でゆっくり固まっていく。
「消息不明、というのは」
『平野のパーティーに同行した一般探索者が、ダンジョン内で戻ってこなかった、というケースです。表向きは、いずれも「ダンジョン内事故」として処理されています』
「処理されている、ということは——」
『状況証拠が一致しません』如月が言葉を継いだ。『私の調べた範囲では、四件。すべて、平野のパーティーに同行した直後の事故です。偶然と片付けるには、件数が多すぎます』
「四件」
『ええ。そして、平野自身の配信は、明らかに変わってきています』
「変わってきている?」
『「強者の権利」という言葉を、繰り返し使うようになりました。弱者を踏みにじることが、強者にとっての当然の権利だ、という主張です。彼の配信を信奉する視聴者層が、一定数形成されつつあります』
俺は黙って聞いていた。
頭の中で、岩倉が告げた言葉と、如月の説明が重なっていく。岩倉が「決定的な一撃」と呼んだものの輪郭が、少しずつ見えてきた。
「如月さんは、動けないんですか?」
『動きたい、というのが正直なところです』如月の声に、わずかな疲れがあった。『ただ、確たる証拠がない。状況証拠だけでは、動けない。動いて空振りすれば、平野の側が「不当な迫害」として配信のネタにする。むしろ信奉者を増やす結果になります』
「だから動けない」
『ええ』
「俺は、どうすればいいんでしょうか?」
『神楽さんに、何かをお願いする立場ではありません』如月が告げた。『ただ、知っておいてほしかった。これが、現状です』
「分かりました。情報、ありがとうございます」
『また何か動きがあれば、ご連絡します』
電話を切って、俺はしばらくソファに座っていた。
動くかどうかは、まだ決めていない。ただ、平野翔太という男の輪郭が、少しはっきりした。岩倉が急いでいる理由も、もう少し見えてきた。
「ノブレスオブリージュ……」
「ノブレスオブリージュって、なんにゃ?」
「ノブレスオブリージュというのは『高貴さは義務を伴う』という意味だ。それを体現する人たちが本当の貴族であるべきだと思うんだがな」
「エーリスにも貴族はいたにゃ」
「どうだった?」
「立派な貴族も、腐った貴族もいたにゃ。それが人間というものだと思うにゃ」
「たしかにな」
イゾルデの言ったとおりだ。最初、貴族なのになんて歪んだ思想の持主なんだと思ったが、それは自分の貴族に対する理想を押し付けているだけだ。所詮は人間のやること。
現実を悲観しても仕方のないこと。ただ、新貴族の中にも自浄作用があればいいのにと思う。
*
午後、ソフィアと近場の練習場に向かった。
六本木から少し離れた、地下にある探索者向けの練習施設だ。広いスペースに、的や標的、簡易のダミー人形が並んでいる。ソフィアが時々使っている場所で、俺は付き合いで来ている形だった。
「凪、今日は剣を持つか?」
ソフィアが告げた。今日は黒の練習着姿で、白銀の髪を後ろで束ねている。剣を構えると、ソフィアの全身は別の生き物のように動く。何度見ても感嘆するしかない。素人の俺が言うのもなんだが、まさに剣舞といってもいいだろう。
「持たないです。俺は前衛じゃないので」
「それは分かっている。ただ聞いただけだ」
「いつも聞かないじゃないですか」
「ちょっと残念だと思ったんだ。凪には剣の才能があるから」
たしかに、俺は剣術のスキルを持っている。実際、剣を自由自在に扱えると思うが、人前では前衛の能力を隠しておきたかった。
ソフィアがわずかに口元を緩めた。それが、ソフィアの今日の最初の表情の動きだった。
俺は壁際に座って、ソフィアの素振りを見ていた。剣に魔力を纏わせて、空間を切るような動き。何度見ても、ソフィアの剣筋には独特のリズムがある。重い一撃と、軽い切り返しが、不規則に組み合わさる。
肩のイゾルデが、囁いた。
「ソフィア、強そうにゃ」
「強いに決まってるだろ」
「凪も剣やるにゃ?」
「やらない。俺は中距離専門だ……。ということにしておきたい」
「中距離も強いにゃ?」
「自分で言うのもなんだが、まあ、それなりに」
ソフィアが素振りを止めて、こちらに振り向いた。
「凪」
「はい」
「先日、ロシアの話を少しだけしたな」
俺は短く息を吸った。
京都の土産を渡した時、ソフィアは「ロシアにはない」とだけ告げた。それ以上は話さなかった。今日、ソフィアの方から切り出してくるのは——意外だった。
「しましたね」
「ロシアにも、似たような組織があった。新貴族、というのとは違うが、外国の権力に取り込まれた者たちの集まりだ」
「……今も、ありますか?」
「分からない。私が国を離れる前はあった。今は、知らない」
ソフィアが剣を下げて、こちらに歩いてきた。
壁際に座って、俺の隣に座った。一人分のスペースを空けて。
「私の家族は、その組織に関わりがあった。被害者として」
「……」
「私は、それで国を離れた。詳しくは、また今度話す」
「分かりました。ありがとうございます」
「礼を言うことではない。ただ、神楽さんが新貴族と関わっているなら、知っておいてほしかった」
ソフィアが、しばらく黙った。
壁の向こうから、誰かの練習の音が小さく聞こえていた。
俺は何も答えなかった。答えるべき言葉が、すぐには見つからなかった。
ただ、ソフィアが俺に心を開いてくれたのが、うれしかった。
*
夕方、帰りに南大沢の探索者協会に立ち寄った。
探索の予定はないが、登録情報の更新の確認だけしておきたかった。窓口に立つと、坂崎さんがすぐに気づいてくれた。
「神楽さん」
「お疲れ様です。登録情報の確認を」
「はい。少々お待ちください」
坂崎さんが端末を操作しながら、ふと顔を上げた。
「神楽さん、もしお時間ありましたら、少しだけ」
「ありますよ」
「あの——お土産のお返し、と言うと変ですけれど」
坂崎さんがカウンターの下から、小さな包みを取り出した。
「私、和菓子を作るのが趣味なんです。先日いただいた京都のお菓子のお返しに、と思って」
「手作りですか?」
「はい。お返しが手作りで、釣り合うか分からないんですけれど」
俺は包みを受け取った。
軽い。三つ四つの和菓子が入っているくらいの重さだ。包装も、丁寧にされていた。
「釣り合うとか釣り合わないとか、そういう話じゃないです。まさか手作りのお菓子でお返しをいただけるなんて、正直言ってびっくりしました」
「……そ、そうですか」
「むしろ、こちらこそ恐縮です。仕事中にすみません」
「いえ。喜んでいただいて、本当に良かった。食べたら感想を聞かせてくださいね」
「はい、もちろんです」
坂崎さんが、わずかに目を伏せた。
俺は包みを鞄に入れて、軽く会釈をして窓口を離れた。
ロビーを出ながら、肩のイゾルデが囁いた。
「凪、坂崎は頑張ってるにゃ」
「気づいてる……かな」
「気づいてないふりにゃ?」
「気づいたって言わない方がいい場面もあるだろ。前にも言ったと思うが」
「凪はおっさんにゃ」
「おっさんでいい。おっさんでないと、ああいう気遣いは分からないからな」
俺は地下鉄の駅に向かって歩いた。
今日一日で、いろいろなことが頭に入った。如月から聞いた平野翔太の動向。ソフィアの過去の影。そして、坂崎さんの和菓子。
全部が同じ重さではない。ただ、全部が、俺の生活の中にあるものだった。
*
ペントハウスに戻って、紅茶を淹れた。
「和菓子だから、緑茶の方がよかったかな?」
坂崎さんの和菓子を皿に出して、一つだけ食べた。緑の練り切りで、形は若葉を模していた。甘さが控えめで、丁寧な仕事だった。
肩のイゾルデが、満足げに身体を伸ばしていた。
俺がもう一つ食べようとした時、スマホが震えた。
画面を見て、俺は和菓子を皿に戻した。
如月透。
通話ボタンを押した。
「もしもし」
『神楽さん、緊急です』
如月の声には、いつもの落ち着きがない。
「どうしましたか?」
『明日、平野翔太のパーティーが、南大沢ダンジョンに入る予定が確認されました』
「……明日、ですか?」
『はい。そして、同行する一般探索者の名簿に——』
如月が、一拍置いた。
『坂崎里奈さんの、同僚の名前があります』
俺は紅茶のカップを置いた。
ティーカップが、卓に当たって、わずかに音を立てた。
「同僚、というのは」
『南大沢支部の元同僚で、現在は別の支部に勤めています。週末を利用して、一般探索者として参加するそうです』
「平野のパーティーに、なぜ」
『募集に応募した形になっています。一般探索者の側は、平野翔太の本当の姿を知らない。これまでの消息不明者も、同じ経緯です』
俺はしばらく、何も答えなかった。
如月が伝えたかった意味は、もう十分伝わっていたからだ。
「動くしかないか」
『神楽さんが動くかどうかは、ご判断にお任せします』
「分かりました。情報、ありがとうございます」
電話を切って、俺はしばらくソファに座っていた。
悠々自適に生きたいだけなんだけどな、という独り言は、今日は出てこなかった。
代わりに、別の言葉が浮かんでいた。
動かないままでいるのは、もう、難しい。
如月の思い通りに動き過ぎるのはよくないと思うが、座して待つ状況ではない。
肩のイゾルデが、囁いた。
「凪、行くにゃ?」
「行くしかないだろ」
「やっとにゃ」
「やっと、じゃない。順番として、今だ」
俺は紅茶のカップに手を伸ばした。
ぬるくなっていたが、それでよかった。




