第37話 土御門邸
タクシーは京都の街を東に向かった。
窓の外を見る。観光客で賑わう四条の通り。そこを過ぎて、鴨川を渡る。橋の上から見える川面が、午後の光を反射していた。緩やかな流れを、白いサギが一羽、長い首を伸ばして見ていた。
京都という街は、不思議な場所だ。新幹線で二時間ちょっとの距離なのに、東京と全く違う時間が流れている。観光客が歩いているのに、街は急がない。古い建物と新しい建物が並んでいるのに、調和している。
「初めてですか、京都」彰彦さんが告げた。
「修学旅行以来です」
「私は仕事で何度か。ただ、土御門邸に行くのは私も初めてです」
「初めて、ですか」
「ええ。一条家と土御門家は、長く距離を取ってきましたから」
彰彦さんが少し言葉を選んだ。
「方針が違うんです。一条家は技術と実業で勝負する家。土御門家は伝統と血統で勝負する家。同じ五大華族でも、根本の発想が違います」
「で、今日その距離が縮まるかもしれない、という話ですか」
「分かりません」彰彦さんが正直に告げた。「土御門家がなぜ凪さんを呼んだのか、私もまだ完全には理解していません」
俺は黙って窓の外を見た。
タクシーが東大路を北上している。建物が少しずつ低くなっていく。観光地から離れて、住宅街に入っていく。塀のある家が増える。その塀が、だんだん高くなっていく。
肩のイゾルデが、小さく言った。
「凪、なんか空気が違うにゃ」
「そうだな」
「ボクの勘では、面倒なのが待ってるにゃ」
「お前の勘は外れたことがあるか」
「ないにゃ」
「困ったな」
彰彦さんが、わずかに口元を緩めた。それが、彼の今日初めての表情の動きだった。
*
高い塀に囲まれた敷地。表門は古いが、手入れが行き届いている。塀の向こうから見えるのは、瓦屋根の母屋と、その奥に立つ古い樹木の影だった。明治か、それより前の時代から続く家の佇まい。
タクシーを降りて、表門の前に立つ。
「写真撮影は禁止です」彰彦さんが小声で言った。「敷地に入ってからは特に」
「分かりました」
「あと——口調は普段通りで構いません。土御門のご当主は、形式より中身を見る方です」
「形式より中身」
「はい。ただ、中身はかなり厳しく見ます」
彰彦さんが、表門のインターホンを押した。
「一条彰彦です。神楽様をお連れしました」
『お待ちしておりました。お通りください』
しばらくして、左側の通用門が静かに開いた。中から、紋付き袴の男性が現れて、深く頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。ご案内いたします」
通用門を抜けると、敷地の中は外の喧騒が遠くなった。砂利道。手入れされた松。丁寧に掃き清められた地面。一歩ごとに、空気の質が変わっていく。
俺はあまり意識しないようにして歩いた。意識すると、緊張が出る。緊張が出ると、それは相手に伝わる。相手に伝わると、判断材料を一つ余計に与える。それは避けたい。
肩のイゾルデは、いつもより静かだった。
ボクの審査が始まるにゃ、とか言うかと思ったが、何も言わない。空気を読んでいるらしい。
母屋に入って、廊下を進む。畳の匂いと、古い木の匂いがした。
案内された先は、十畳ほどの座敷だった。床の間に掛軸が一つ。その前に、座布団が置かれていた。
「お座りください」案内の男性が告げた。「ご当主はすぐにいらっしゃいます」
彰彦さんが座布団に座った。俺もその隣に座った。
正座は、得意ではない。前世——いや、若返る前の人生で、正座する機会はほぼなかった。十七歳の身体は柔軟で、まだましだったが、それでも痺れる予感がしていた。
「凪さん」彰彦さんが小声で言った。「足は崩していいですよ。ご当主の許しが出れば」
「許しが出るまで、もちますかね」
「それは、ご当主次第です」
俺は内心で愚痴を漏らした。
昨日、彰彦さんに「練習する時間はある」と言われたのを思い出した。練習はしなかった。これから一時間、後悔するかもしれない。
しばらくして、襖の向こうから足音が聞こえた。
ゆっくりとした、しかし迷いのない足音。襖の前で止まる。一拍の間。
襖が、静かに開いた。
六十代後半の男性が、入ってきた。
白髪交じりの髪。和装。背筋が真っ直ぐで、年齢を感じさせない。穏やかな顔の作り方を知っている男の顔——いや、違う。穏やかであることに重きを置いていない男の顔だった。
大公とは、別の系統の男だ。
土御門有貴。
ご当主は俺たちの前に座って、目を細めた。
「神楽凪さん」
その目は、評価する目だった。値踏みする目ではない。値する人物かどうかを、誠実に見極めようとする目だ。
「はじめまして」と俺は告げた。
「はじめまして」土御門は静かに頷いた。「噂はかねがね伺っております」
俺は何も答えなかった。
答える前に、土御門の方から続けた。
「ただ、噂と本人は違うものです。今日は、本人を拝見させていただきます」
俺は土御門の目を見返した。
逃げる場面ではない、と思った。
しばらく沈黙があった。
土御門は俺を見ている。値踏みではなく、見極める目。俺は土御門を見返している。逃げる場面ではないからだ。
評価が終わるまで、何分かかるか分からなかった。一分かもしれないし、五分かもしれない。ただ、俺はこの時間を耐えられる。耐えるために来たわけではないが、結果として耐えている。
土御門が、わずかに目元を緩めた。
「楽になさってください」
「楽に、ですか」
「正座は、得意ではないでしょう」
俺は彰彦さんを見た。彰彦さんは小さく頷いた。
俺は正座を崩して、胡座に近い形に変えた。膝が解放された瞬間に、痺れが少し戻ってきた。我慢していたほうが楽だったかもしれない、と一瞬思った。
「神楽凪さん」土御門が改めて告げた。「あなたを今日お呼びしたのは、確認したいことが一つあるからです」
「何でしょうか」
「あなたは、何を守りたいですか」
部屋の空気が、わずかに変わった。
俺は土御門を見た。土御門は俺を見ている。簡単な質問のようで、違う。これは試問だ。答えによって、土御門は俺の立ち位置を判断する。
頭の中で、いくつかの答えが順番に並んだ。
日本という国を守りたい。新貴族の暴挙を止めたい。家族を守りたい。配信の視聴者を守りたい。悠々自適に生きたい。
どれも嘘ではない。ただ、どれも全部ではない。
「答えにくい質問ですか」土御門が静かに告げた。
「そうですね」俺は素直に告げた。「答えにくいです」
「なぜ」
「答えを一つに絞ると、嘘になるからです」
土御門が目を細めた。それは初めて、わずかに笑ったように見える表情だった。
「では、絞らずに答えてください」
俺は少し考えた。
絞らずに答える。それは、自分の中の優先順位を、隠さずに見せるということだ。
守りたいものは、いくつもある。順番もない。状況によって変わる。ただ——根っこにある何か一つを言葉にするなら。
「自分が、悠々自適に生きていたいというのが、根っこにあります」と俺は告げた。「ただ、悠々自適は一人では成り立たないので、周りの人間の悠々自適も一緒に守る必要があります。だから、家族や、関わりのある人たちが脅かされている状況は、放っておけません」
「それだけですか」
「それだけです。日本のためとか、社会のためとか、そういう大きい言葉はまだ持っていません。持つかもしれませんが、今はないです」
土御門がしばらく俺を見た。
それから、ゆっくりと頷いた。
「結構です」
「結構、というのは」
「あなたが、嘘をつかない人間であることを、確認できました」土御門は座り直した。「正直、私はもっと立派な答えを期待していました。期待に応える答えをあなたが用意してきたら、私はあなたを信用しなかったでしょう」
俺は土御門の言葉を、頭の中でもう一度反芻した。
準備された答えなら、信用しなかった。準備されていない答えだから、信用した。それは——なるほど、土御門という人間は、そういう種類の試問をする人なのか。
「では」と俺は告げた。「俺は今日、何のために呼ばれたんでしょうか」
「五大華族会議に、あなたを紹介するためです」土御門が告げた。「他の三家は、まだあなたを直接知らない。今日、私の立会いの下で、あなたに会わせます」
「他の三家、というのは」
「北小路、岩倉、水野です。彼らは別室にいます。私が呼べば、すぐに来ます」
俺は彰彦さんを見た。
彰彦さんも、わずかに目を見開いていた。聞いていなかった、という顔だ。
今日は、土御門有貴との一対一だと聞いていた。それが——四家との対面に変わる。
肩のイゾルデが、囁くように告げた。
「凪、面倒なのが本格的に始まるにゃ」
「みたいだな」
土御門が、初めてはっきりと笑みを見せた。
「驚かせて申し訳ありません」土御門が告げた。「ただ、これも試問の一つです。準備していなかった状況で、あなたがどう振る舞うか、四家全員で見たい」
俺は短く息を吸った。
悠々自適に生きたいだけなんだけどな、という独り言が、また口から漏れそうになるのを、ぎりぎりで止めた。
「分かりました」と俺は告げた。「お会いします」
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