第36話 五大華族の招集
長らくお待たせしました。
「第五章 五大華族の招集」を開始します。
GW中は5/4まで連続投稿しますが、
その後は、基本的には火曜日と金曜日の夜(21時頃)に更新します。
六本木の朝は、いつも少しだけ嘘くさい。
三十八階のリビングから見える東京タワーは、朝陽を浴びて赤く光っている。俺の人生にこんな景色が日常になる日が来るとは、ブラック企業時代には想像もしなかった。十七歳の身体で見ているという事実も含めて、いまだにどこか他人事だ。
家賃六万のワンルームから始発で出勤していた頃の感覚が、まだ抜けていない。紅茶を選ぶようになったのも、つい最近の話だ。
キッチンに立って、湯を沸かした。
ダージリンか、アールグレイか。どっちでもいい朝だが、どっちでもいい朝こそ選ぶ価値がある——というのが、悠々自適に生きるための個人的な指針だ。この歳になって気づいたが、人生の質はこういう小さな選択の積み重ねで決まる。少なくとも、ブラック企業の缶コーヒーを義務的に流し込んでいた頃より、確実に質は上がっている。
「ダージリンにゃ」
肩の上のイゾルデが、勝手に決めた。
「お前は俺の選択権を尊重する気がないな」
「凪が決めない時間が長いから、ボクが決めるにゃ」
「決めない時間ってのは、考えてる時間って言うんだ」
「同じことにゃ」
「全然違う。考えてるってのは、つまり——」
「ダージリンか、アールグレイか、ってことにゃ?」
「そうだな」
「だからボクが決めたにゃ。早いほうが幸せにゃ」
俺は何も言えなくなった。
言い返したい気持ちはあるが、言い返した先に勝ち筋がない。よく考えると、こういう小さな議論で勝とうとしても消耗するだけだ、というのも悠々自適の指針の一つに加えるべきかもしれない。
「凪、また考えてるにゃ」
「お前と話してると指針が増えるんだよ」
「ボクは凪の人生に貢献してるにゃ」
「貢献の方向性は、毎回俺の負けで決まってるけどな」
茶葉を量りながら、スマホが震えた。
液晶に「彰彦さん」と表示されている。
「ダージリンにしろ」と俺はイゾルデに告げてから、通話ボタンを押した。
『おはようございます、凪さん』彰彦さんの声は朝七時にしては落ち着きすぎている。『お時間よろしいですか』
「ええ。何ですか、こんな時間に」
彰彦さんの「お時間よろしいですか」が朝七時に飛んでくるとき、内容が軽かった例しがない。これは半年付き合って学んだ経験則だ。
『五大華族会議が、凪さんと話したいと言っています』
湯を注ごうとしていた手が、止まった。
ティーポットの上で、湯気が真っ直ぐに立ち上がっていく。
「……五大華族」
『はい』
「俺と」
『はい』
肩の上のイゾルデが、こちらを覗き込んだ。
「ごだいかぞくって何にゃ?」
「おっさんの集まり」
「凪もおっさんにゃ」
「俺は外見十七歳だ」
「ボクは関係性で見るにゃ」
通話の向こうから、彰彦さんが小さく咳払いをした。聞こえているらしい。
俺は湯を注ぐのを諦めて、いったんポットを置いた。聞き間違いではないらしい。
頭の中で、いくつかの単語が順番に並んだ。五大華族、会議、凪さんと話したい。並べてみても意味は変わらない。意味は変わらないが、面倒なことになったな、というのが正直な感想だった。
「断れないやつですか、それは」
『断ることはできます。ただ、断れば次の選択肢はもっと面倒な形で来る、という確度の話です』
「彰彦さんの言い方で『確度の話です』って言われると、たいていそれは確定してる話ですよね」
『ご明察です』
彰彦さんがわずかに笑った気配があった。
そして俺は、自分が「悠々自適に生きたいだけなんだけどな」と独り言を漏らしているのに気づいた。声に出すつもりはなかったのだが、肩の上のイゾルデが「凪、今日の口癖はもう出たにゃ」と笑った。
「うるさい」
「事実にゃ」
「事実ほど、本人の前で言わなくていいことはない」
電話の向こうで、彰彦さんがまた小さく笑った。
『会議は明日の午後、京都で開かれます』彰彦さんが調整モードに戻った。『土御門邸です。私もご一緒します』
「土御門邸」
それは、五大華族の中で最も伝統に重きを置く家の本邸だ。年に数回しか開かれない五大華族会議が、わざわざそこで召集されるということ自体が、意味を持っている。
半年前、俺は「悠々自適に生きる」と宣言した。誰かの駒にはならない、と決めた。決めたつもりだった。その俺に、五大華族が会いに来る——いや、呼びつけている。
組み込まれたくはない、というのが本心だ。
ただ——彰彦さんは柚葉の婚約者で、一条家は五大華族の一つで、つまり俺はもう、半分はあちら側に足を入れている。完全な無関係を装うのは、そもそもの構造として無理がある。
茶葉が、静かに湯気を上げていた。
まだ淹れていない、ただの乾いた葉だ。これから熱湯を注げば、ダージリンになる。注がなければ、ただの葉のままだ。
俺は紅茶を淹れることにした。明日のことは、明日考えればいい。今日できるのは、湯を注ぐことだけだ。
「分かりました。明日、伺います」
『ご無理を言って申し訳ないです』
「いえ。ただ、一つだけ」
『はい』
「土御門邸って、和室ですよね」
『和室です』
「正座、得意じゃないんですよ俺」
彰彦さんが、今度ははっきり笑った。
『練習する時間は、まだあります』
電話を切って、ようやく俺は湯をポットに注いだ。湯気が立ち上がって、ダージリンの香りがリビングに広がった。
肩の上のイゾルデが「凪」と呟いた。
「面倒くさい話にゃ?」
「面倒くさい話だな」
「逃げる?」
「逃げない。逃げても追いかけてくる種類の話だから」
「凪はえらいにゃ」
「えらくはない。ただ、悠々自適は、面倒なことから逃げる権利のことじゃないんだ。たぶん」
「たぶん?」
「たぶん」
「凪、自信なさそうにゃ」
「自信ないんだよ。誰かに教わったわけじゃない指針だから、当たってるかどうかは自分で確かめるしかない」
「ボクが審査してあげるにゃ」
「お前の審査基準が一番怖いんだよ」
たぶん、と付け加えたのは、自信がなかったからだ。
三十五年生きてきて、まだ自信を持って言い切れることが少ない。それでも、紅茶を淹れる手は迷わなかった。
*
翌日、午前十時の新幹線に乗っていた。
彰彦さんが手配したグリーン車。窓側に俺が座り、通路側に彰彦さんが座っている。イゾルデは肩の上で、流れていく景色を金色の目で追っていた。
昨夜のうちに、最低限の準備はしておいた。スーツは持っていなかったから、彰彦さんに紹介してもらった店で一着、急ぎで仕立てた。十七歳の体格に合わせた濃紺のスーツは、鏡で見ると「証券会社の新人」みたいな印象になった。中身がおっさんでも、身体に合わせるとこうなるらしい。
「ご無理を言ってすみません」彰彦さんが車内のコーヒーを置きながら言った。
「いえ。ただ、一つ確認しておきたいんですが」
「どうぞ」
「俺は今日、何者として呼ばれてるんですか」
彰彦さんが少し考えた。
「公式には、神楽凪、五級探索者。一条グループの協力者。それ以上でも以下でもないです」
「非公式には」
「色々な解釈があります」彰彦さんは少し笑った。「黒猫ちゃんねるの裏にいる人物、と読んでいる家もあれば、一条家が抱え込んでいる切り札、と読んでいる家もあります」
「魔神の末裔としては」
「そこまで踏み込んで読んでいる家はないと思いますが、土御門は近いところまで来ているかもしれません」
俺は窓の外を見た。
十月の朝の景色が流れている。新幹線は静かに加速していた。山が遠くなり、田畑が広がっていく。普通の日本の風景だ。普通の日本の風景の中を、俺は今日、五大華族会議に呼ばれて移動している。
頭の中の整合がうまく取れない。
「彰彦さん」
「はい」
「俺、駒として呼ばれてるんですか」
彰彦さんが俺をちゃんと見た。
「分かりません。少なくとも一条家はそういう扱いをしないつもりです。ただ、他の家がどう見ているかは——本人と会ってみないと分からない」
「正直に言ってもらえると助かります」
「私も正直に言いたい」彰彦さんが視線を窓に移した。「ただ、五大華族会議は私の家の単独の場ではない。私が答えられるのは、一条家の意図までです」
なるほど、と俺は思った。
彰彦さんは正直な人だ。だが、正直さの限界を自分で分かっていて、それを口にする人だ。だから一条家のリーダーとして信用される。
「分かりました。質問の方向を変えます」
「どうぞ」
「今日、俺が断ってもいい場面はありますか」
「あります」彰彦さんは即答した。「全部です。凪さんは何も決めなくていい。ただ会って、話を聞いて、帰る——それで構いません」
「断った場合のリスクは」
「五大華族との関係が悪くなるだけです。それは私が引き受けます」
彰彦さんが、また少し笑った。
「凪さんを連れて行く以上、私が責任を持ちます。そのために行きます」
俺はコーヒーを一口飲んだ。少し苦かった。
肩の上のイゾルデが、囁くように言った。
「彰彦、いい男にゃ」
「お前、彰彦さんに弱いよな」
「ボクの選球眼は確かにゃ」
彰彦さんが、聞こえないふりをして窓の外を見ていた。耳は赤くなっていなかった。さすがだ。
*
京都駅。
ホームに降り立つと、十月の空気が頬を撫でた。東京より少しだけ涼しい。少しだけ、湿度が低い。
俺は深く息を吸った。
吸ったところで、覚悟は固まらない。固まらなくてもいい。固める必要があるかどうかも、まだ分かっていない。
ただ——歩き出す必要はあった。
「行きましょう」と彰彦さんが告げた。
「行きます」
肩のイゾルデが、小さく鳴いた。鳴き声には、ボクがついてるにゃ、という意味が含まれているように聞こえた。
たぶん、気のせいだ。
ただ、気のせいでも、悪くなかった。
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