第35話 悠々自適、はじまる
大公の計画崩壊は、翌日の昼過ぎにニュースになった。
「外国勢力によるダンジョンテロ」という見出しが、全てのニュースサイトのトップを飾った。如月さんが用意した証拠が、記者と信頼できる上層部の人間に同時に渡っていた。ダンジョン庁の副局長と技術開発部の部長が職務停止になった。セントアーリア公国の大使館が声明を出した。
政治的な処理は、ここから先が長い。如月さんがその中心にいる。
俺の仕事は、終わった。
《おめでとうございます。今朝の南大沢のスタンピード被害ですが、死傷者ゼロで抑制完了が確認されています。新宿も同様です。今回は——全部、守れました》
その言葉を、胸の中でひと回しだけ転がした。
死傷者ゼロ。全部、守れた。
特別に誇らしいわけではなかった。ただ、呼吸が一段浅くなって、それから少しだけ深くなった。それだけのことだった。
「そうか。——ご苦労、エル。よくやってくれた」
それだけで、今日は十分だった。
◇
夕方、聖羅からメッセージが来た。
「打ち上げをしなさい。場所はあなたのペントハウスで。今夜、伺います。これは三十億の返済の一環なので断れません」
文面を三回読み直した。三十億の打ち上げというのは、世界のどこかの国家予算ではないか、と思った。
少し考えてから、ソフィアに転送した。
「聖羅さんが打ち上げに来ると言っている。お前も来るか?」
返信は一言。「行く」
イゾルデが枕から顔を上げた。
「にぎやかになるにゃ?」
「ああ、にぎやか過ぎるんじゃないか?」
「いいにゃ」イゾルデは尻尾をぴんと立てた。
「凪、料理するにゃ」
「……お前、俺が料理できること、ちゃんと知ってたのか」
「知ってたにゃ。ずっと待ってたにゃ」
苦笑しながら、キッチンに向かった。
鍋の底に油を引いて、玉ねぎを刻む。
包丁が菜切り板を叩く音が、リビングの静けさに混ざっていく。
久しく聞いていなかった、自分のための音だった。
◇
六時に、ソフィアが来た。
いつものコートではなく、少し柔らかい印象の服を着ていた。
ペントハウスに入ると、キッチンから漂う匂いに、一瞬だけ足を止めた。
「……料理するのか」
「まあ、たまには、ね。あと少しで出来ますから、ソファで寛いでいてください」
ソフィアがリビングのソファに座って、窓の外を見た。
夜の東京がパノラマに広がっていた。
「きれいだ」
小さく、独り言のような声だった。
そこに、インターフォンが鳴った。
モニターを見ると、プラチナブロンドの人影が映っていた。後ろに黒いSUVと、莉子と結衣の姿もある。
「——聖羅さん、なぜ三人で来るんですか」
「莉子と結衣は護衛ですわ」と聖羅の声がした。
「関係ない話をするなら先に帰らせます」
「……護衛を連れた打ち上げというのは、さすがに初めて聞きますね」
「北条院家の流儀ですわ」
解錠ボタンを押した。
◇
聖羅が部屋に入った瞬間、ソフィアと目が合った。
一拍の間があった。
「……あなたが、ソフィア・ヴォルコワ」聖羅が先に口を開いた。
「南大沢で共闘していた方ですわね」
「そうだ。あなたが北条院聖羅か。十層の迎撃、見ていた。強かった」
聖羅の表情が、わずかに変わった。
素直な賛辞を受け取る準備が、半拍、遅れた。
碧眼の中で、何かが一度だけ揺れたのを、俺は見ないふりをした。
「……当然ですわ。私を誰だと思っていますの?」聖羅はソファの一番いい位置に腰を下ろした。
「それより、あなたは何者ですか。凪様のパーティーと聞きましたが、詳しくは」
「詳しくは話せない」ソフィアは窓の外を向いた。
「……そう」聖羅は俺を見た。
「凪様、今日のメニューを教えなさい」
「聖羅さん、その『凪様』という呼び方は、そろそろ勘弁してもらえませんか」
「では何と呼べばいいんですか?」
「——『凪』で十分です。様付けされるほど、大した人間じゃない」
聖羅が、半拍、間を置いた。口の中で一度、発音の練習でもするように唇が動いた。
「……凪。メニューは?」
「鶏肉の煮込みと、スープと、焼きたてのパンです」
「……質素ですわね」
「文句があるなら、お帰りいただいても構いませんよ」
「文句はありませんわ」と即答した。
「続けてください」
イゾルデが「にゃははっ」と高らかに笑った。
◇
テーブルを囲んだのは、四人だった。
凪、ソフィア、聖羅、イゾルデ。
莉子と結衣は「お邪魔虫は退場しますわ」と気を遣って先に帰った。
聖羅が「莉子、余計なことを」と言ったが、止められなかった。
料理を出すと、聖羅が一口食べて黙った。フォークが皿の上で、二秒、止まった。
「……美味しい」と小さく言った。
「ありがとうございます。お口に合ったなら、何よりです」
「予想外でしたわ」
「褒められているのか、貶されているのか、どちらでしょうか」
「褒めていますの」聖羅はまた一口食べた。
「凪は料理もできるのですね」
「元々、一人暮らしが長かったので。自炊しないと、生きていけなかっただけですよ」
「Вкусно(おいしい)」とソフィアも言った。ロシア語が自然に出た。「あなたが作ったのか」
「ええ、下ごしらえから全部」
「意外だった」
「……ソフィアさんにも、そう言われるのは二度目ですね」
「にゃははっ」とイゾルデが笑いながら、鶏肉を器用に食べていた。
「凪の料理は、むかしから好きにゃ」
「むかし、って言うほど、俺はそんなに何度も料理してないぞ」
「ペントハウスに来てから、ちょくちょく作ってたにゃ。一人で食べてたにゃ」
言葉に詰まった。
「……イゾルデ、そこまで言わなくていい」
「なぁ~」とイゾルデは悪びれずに鳴いた。
聖羅とソフィアが、ほぼ同時に俺を見た。
視線の温度が、少しだけ似ていた。
気づかないふりをするには、まず気づかないといけないのだが、それは言わないことにした。
◇
食事が終わって、紅茶を淹れた。
アールグレイ。ドン・キホーテの、一袋四百九十八円の茶葉だ。
湯気が、カップの縁で細く立ち上がる。
聖羅がカップを受け取った——その瞬間、指の動きが止まった。
鼻先に香りを受け止めて、一拍、二拍。長いまつ毛の下で、碧眼が一度だけ揺れた。
北条院家の令嬢が、四百九十八円の紅茶の前で、呼吸を忘れている。
「……この香り」
かすれた声だった。
「お気に召さないようでしたら、別の茶葉をお出ししましょうか」
「いいえ」聖羅の指が、カップの側面を包み直した。
プラチナブロンドがひと筋、頬に落ちた。「これでいいです」
いいえ、ではなく、これでいい、と言った。
北条院家の令嬢にしては、ずいぶん砕けた日本語だった。
ソフィアが黙ってカップを傾けた。喉が小さく動いて、それから、窓の外を向いたまま独り言のように呟く。
「……同じ茶葉だ」
「お二人とも、何か問題でも?」
「ない」ソフィアはもう一口飲んだ。「好きだ、この味」
東京の夜景が、四人の輪郭を薄く縁取っていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
沈黙というより、紅茶の湯気と息の音だけが部屋をゆっくり回っていた。
その静けさが、不快ではなかった。
この部屋が、今はじめて、誰かの「帰る場所」になりかけている。そんな錯覚を、俺は否定しないことにした。
「凪」と聖羅が言った。
「なんでしょう、聖羅さん」
「これからどうするつもりですか?」聖羅は夜景を見たまま続けた。
「大公の件は終わりましたわ。ダンジョンの向こう側の話はまだ先だと聞きました。では——今は、何をするつもりですか?」
しばらく、考えた。
本当は、考えるまでもなかった。
「——悠々自適に、生きていこうと思っています」と答えた。「それだけですよ」
聖羅が俺を見た。
「……それだけ、ですか?」
「ええ。それだけです」
「つまらない答えですわね」聖羅は少しだけ口元を動かした。
笑みに似た、何かだった。「ただ——悪くはありませんわ」
ソフィアが窓の外を向いたまま、短く「私もいる」と言った。
「……ありがとうございます、ソフィアさん」
「礼を言うことじゃない。ただの事実だ」
イゾルデが「なぁ~」と鳴いた。全てを分かっているような声だった。
◇
夜が更けて、聖羅が帰った。
玄関で「次の配信、早めにしなさい。カネゴ——いえ、視聴者が待っていますわ」
「聖羅さん、今『カネゴン』と言いかけましたよね」
「聞き間違いです」
ドアが閉まった。閉まる直前、聖羅の耳の先が、わずかに赤かった。
ソフィアも少し後に帰った。コートを羽織りながら、「また来る」と言った。理由は言わなかった。
「ええ、いつでもどうぞ」と答える。
ソフィアが口元を動かして、出ていった。笑顔、だったのだと思う。たぶん。
◇
ペントハウスが静かになった。
イゾルデが窓枠に座って、夜景を見ていた。金色の瞳に、東京の光が細く映り込んでいる。
「凪」
「どうした、イゾルデ」
「今日、楽しかったにゃ?」
しばらく考えた。
「ああ、楽しかったよ。こういう夜は、本当に久しぶりだ」
「なぁ~」とイゾルデが鳴いた。満足そうな声だった。
《一点、ご報告があります。配信の登録者数ですが、今日の決戦の関連ニュースで黒猫ちゃんねるが言及されたため、急激に増加しています。現在——三百八十万人を超えています》
その数字を、耳の中で一度、反芻した。
「……また、えらい勢いで増えたな」
《倍以上になりました。なお、JIN_KIRISHIMAが今夜のアーカイブに高評価をつけています。コメントはありませんでした》
「今回もコメントなし、か。——あの人も、律儀だな」
《そのようです》
霧島迅は何も言わない。
ただ、見ている。その一点だけが、なぜか静かに胸に刺さった。
ライバル、というには距離が遠い。
しかし無視されているのとも違う。
そういう見守り方を、あの男はいつからできるようになったのだろうか。
「——悠々自適には、まだ程遠いな」
《ただ、今夜のあなたを見ていると——あながち遠くもないかもしれません》
ソファに、深く沈み込んだ。窓の外を見る。
東京の夜景。三百八十万人。アールグレイの残り香。
悪くない。
◇
その夜、夢を見なかった。
田所の声は、聞こえなかった。蛍光灯の下の退職届も、出てこなかった。
ただ、朝になった。
目が覚めると、イゾルデが枕元で丸まっていた。金色の目が細く開いて、俺を見た。
「なぁ~」
「おはよう、イゾルデ。今日もいい朝だな」
窓の外に、朝の東京が広がっていた。空が、澄んでいた。昨日より、ほんの少しだけ、遠くまで見えた気がした。
神楽凪、元社畜、三十五歳(戸籍上十七歳)。魔神進化済み。レベル一〇二四。
悠々自適、はじまる。
★ 読者の皆さん、ここまで読んでいただき、ありがとうございます ★
第35話で「第四章 決戦と新世界」と「第一部」が終了となります。
残念ながら、ストックが尽きました……。
そこで、しばらく間をおいてから第二部を開始させていただきます。
ここまでで、少しでも「面白そう!」「期待できる!」そう思っていただけましたら
応援よろしくお願いします。
作者のモチベーションとなります。




