第34話 決戦
動いたのは、楠木の証言から十一日後だった。
午前三時、エルの声で目が覚めた。
《南大沢と新宿、同時異常発生。先日と同規模以上のスタンピードが始まっています》
俺はすでに起き上がっていた。
「彰彦さんへ」
《送信済みです。彰彦さんからは『新宿はナイトウォーカーで対処します。南大沢をお願いします』と返信が来ています》
「如月さんは」
《『準備できています。今日、動きます』と》
イゾルデが獣人形態に変わっていた。ソフィアへのメッセージはエルが既に送っていた。
「行くにゃ」とイゾルデが言った。
「ああ」
*
南大沢に向かう電車の中で、スマホが静かに振動した。
聖羅からだった。
「聞こえますか?」
「聞こえます」
「ヴァルキリーも動きますわ」
凛とした声だった。カネゴンの面影はどこにもない。「南大沢と新宿、どちらに必要ですか?」
「南大沢をお願いします。十層から十五層の迎撃支援です」
「分かりましたわ」聖羅は少し間を置いた。「……あなたは」
「五十層まで行きます」
短い沈黙があった。
「……戻ってきなさい」命令口調だったが、声が少しだけ違った。「三十億の借りを、まだ全部返していませんわ」
「分かりました」
電話が切れた。
《聖羅さんらしい言い方ですね》
「そうだな」
窓の外を、夜の街が流れていった。
*
南大沢ダンジョンの入口は、前回と同じ光景だ。
特殊魔導大隊と報道のドローン、だが、今回は規模が違う。隊員の数が倍以上いるし、前回の教訓が生きていた。
ソフィアが入口で待っていた。
「状況は?」
「前回より深層から来ています。今回は五十層まで降ります」
ソフィアが少し目を細めた。「一人で行くつもりですか?」
「イゾルデと行きます」
「三人で行く」とソフィアは言って、剣の柄を確認した。「あなたが五十層に降りるなら、私も行く。それがパーティーというものです」
イゾルデが「なぁ~」と満足そうに鳴いた。
坂崎さんが飛び出してきた。
「——また来てくださいましたか」
前回と違い、坂崎さんの顔に怯えはなかった。覚悟を決めた人間の顔だ。
「お願いします」
「任せてください」
*
中に入ると、既にヴァルキリーの五人が十層付近で迎撃に入っていた。聖羅が光属性の魔法を放ち、大型のモンスターを次々と封じている。
「後方は任せました」と声をかけた。
聖羅がちらりとこちらを見た。
「行きなさい」とだけ言った。
*
三十層を過ぎると、モンスターの質が変わった。
前回のスタンピードとは比べ物にならない。上位種が大量に押し上げられてくる。通路が広い深層ほど、数が多い。
「魔力錯乱——重圧崩落——束縛鎖鳴」
三重のデバフを前方の群れに叩き込むと、ソフィアが雷属性の広域魔法で一帯を薙いだ。イゾルデは残った個体を風刃乱舞で刈り取った。
止まらずに降りて行く。
四十層。四十五層。
四十九層で、空気が変わった。
《前方に高密度の魔力反応、モンスターではありません。人間です。一名》
「人間?」
《エルマキシム大公です。五十層への扉の前に立っています》
俺は足を止めた。ソフィアとイゾルデも止まった。
「なぜ大公が」
《扉の向こうに何かがあります。大公が自ら来たということは——門の安定化装置を、あの扉の先に仕込んでいた可能性があります》
俺は少し息を吸った。
「行きます」
*
五十層への扉の前に、男が立っていた。
五十代。白髪交じりの髪。穏やかな顔の作り方を知っている男。エルマキシム大公だった。
大公が俺を観察する。仮面、角、品定めをしているようだ。
「来ましたか、神楽凪さん」大公の声は穏やかだった。「ここまで来られるとは思っていませんでした」
「扉の向こうに何を仕込みましたか」
「見てみますか」大公は扉に手をかけた。「もう止められませんよ。装置は既に起動しています」
扉が開いた。
向こうに、光があった。
青白い光が、壁一面に走っている。複雑な魔法陣が床に刻まれていて、その中心に球体の装置が浮いていた。脈動するように光っている。
《門の安定化装置です。起動済みですね。このままでは三十分以内に、グリウムとの接続が完了します》
「止められますか?」
《装置を破壊すれば止まります。ただし——大公が妨害してくるでしょう》
大公が俺の前に立った。
「あなたに一つ、提案があります。戦う必要はありません。スサノオの末裔であるあなたが、グリウムとの橋渡しをしてくれれば——」
「断ります」
「理由を聞いてもいいですか?」
「今朝のスタンピードで、また誰かが傷ついています。あなたの計画のために。それだけで十分です」
大公が少し表情を変えた。穏やかな仮面が、わずかに剥がれた。
「あなたは——グリウムを知らない。グリウムとの接続は、避けられない。早いか遅いかの問題だ。ならば、主導権を持って迎えた方がいい。スサノオはそれを拒んで死んだ。あなたは同じ轍を踏むつもりですか」
「スサノオは諦めたものがありました。俺には、諦めたくないものがある。それだけです」
大公が俺を見た。
「……なるほど」大公は静かに魔力を解放した。「では、力でいくしかありませんね」
*
大公は強かった。
特級探索者を超えた魔力。空間を歪める干渉魔法。通路の壁ごと押し潰すような圧力。
俺は腕輪を両方外すしか選択肢はなかった。
魔神の力を解放し、押し返した。
デバフを三重にかけながら、魔導ブレードに全力の魔力を乗せた。ソフィアが横から雷撃を叩き込み、イゾルデが大公の背後に回った。
すかさず大公が空間干渉で三人を弾こうとする。
「封魔結界」
大公の魔法が、半径五メートルで遮断された。
大公が初めて、動きを止めた。
「……封魔結界を、この精度で」
「止まってください。これ以上戦っても、あなたには勝ち目がない」
大公が俺を見て、しばらく沈黙した。
大公の目が、少しだけ変わった。諦めではなく、何かを計算している目だった。
「……一つだけ教えてください。グリウムは、必ず来ます。千年前に封じられた扉は、もう限界に近い。あなたはどうするつもりですか?」
「その時はその時です。今は、止めます」
大公が小さく息を吐いた。
「出たとこ勝負というわけですか? スサノオに似ていますね」
大公は両手を、ゆっくりと胸の前で開いた。降伏の意思表示にも、戦意の放棄にも見える仕草だった。
「私はここで引きます。装置はもうあなたのものです」
「逃げるつもりですか?」
「逃げるのではありません。戻るのです」と大公は穏やかに言った。「私は、セントアーリア公国の元首です。一国の元首をこの国の法で裁ける道理はない。あなたも、それは分かっているはずだ」
俺は答えなかった。
大公の言う通りだった。腹立たしいことに、その通りだった。
「ここで私を斬っても構いませんよ」と大公は続けた。「ただし、その場合はあなたが外交問題の渦中の人になる。仮面をかぶった魔神様が、外国の元首を私的に処断した——そう報じられる結末を、あなたは望みますか?」
イゾルデが俺の肩で、低く唸った。
ソフィアが剣の柄に手を置いたまま、俺の判断を待っていた。
俺は、息を一つ吐いた。
「……行ってください」
「賢明です」
大公は背を向けた。歩きながら、最後にひとつだけ言った。
「グリウムは、来ます。あなたが拒んでも、私が消えても、扉は開く。その時にもう一度、思い出してください——主導権を持って迎えるべきだったと」
通路の向こうに、大公の背中が消えた。
エルが少し間を置いてから、静かに言った。
《大公はダンジョン外でセントアーリア公国の外交官と合流する模様です。外交特権の主張に入ると思われます》
「……分かっていた」
苦い味だった。
*
俺は装置の前に立った。
《破壊方法は、中心の核に直接魔力を叩き込むことです。強度は高いですが——》
「やります」
魔導ブレードに、全力で魔力を込めた。腕輪なし。制限なし。解放された魔神の力で、ブレードが青白く輝いた。
核に、叩き込んだ。
装置が、轟音と共に崩れ落ちる。
魔法陣が消えて、青白い光を失った。
五十層が、静かになった。
《門の安定化装置、破壊完了。グリウムとの接続、中断されました》
俺は床に片膝をついた。全力を使い切った体が重くのしかかる。
ソフィアが隣に立った。
「生きてるか?」
「生きてます」
「よかった」
イゾルデが「なぁ~」と鳴いた。
*
地上に出ると、夜が明け始めていた。
如月さんが入口の外で待っていた。
「今朝、証拠を提出しました。大公のテロ関与の証拠と、庁内腐敗の証拠、両方を。外部の記者と、信頼できる上層部の人間に同時に渡しました」
「大公は?」
「ダンジョン外でセントアーリア公国の外交官に保護されました」如月が短く息を吐いた。「外交特権を主張しています。本国に帰還する手筈を整えているところです」
「裁けない、ということですか?」
「裁けません。一国の元首ですから。日本政府にできるのは、ペルソナ・ノン・グラータ宣告と、国際社会への問題提起くらいです。身柄拘束は不可能です」
如月の声には、悔しさが滲んでいた。取れる手は全部打った人間の声だった。
「……分かっていました」と俺は答えた。
「楠木さんが証言者として名乗り出ています。庁内腐敗の方は、これで動かせます。新貴族の方も、法的には監視対象として扱える線まで持っていきます。国籍剥奪は法解釈として無理でしたが、それ以外でできる限りのことはやります」
「……ご苦労様です」
如月が小さく頷いた。
俺は空を見た。
朝の光が、南大沢の上に広がっていた。
大公は逃げ切った。新貴族は依然として大公の庇護下にある。この国の法律では、彼らに本当の意味で罰を与えることはできない。それは分かっていた。最初から分かっていた。
ただ、それでも。
「終わりましたか?」
「大公の件は」と如月は言って、少し間を置いた。「ただ——」
「ダンジョンの向こう側の勢力は、いずれ来る。大公がそう言っていました」
「向こう側の勢力」と如月は繰り返した。「……あなたが前に言っていた話ですか」
「そうです」と答えた。「今日のところは、今日のことで十分です」
如月が小さく笑った。
「……そうですね」
*
如月が庁の人間と連絡を取り始め、俺はその場で少し息を整えた。
腕輪を嵌め直すと全力を使い切った後の体に、鉛のような重さが戻ってくる。まあ、それでも——悪くない重さだった。
《ご報告があります。新宿ダンジョン、鎮圧完了が確認されました。ナイトウォーカーと彰彦さんのチームが地上溢出を抑え切りました》
「新宿も抑えたか」
《はい。死傷者なし。彰彦さんから『全員無事です』と》
俺は少し息を吐いた。
そのときだった。
《凪》とエルが、少し違う声で言った。《入口付近に——一人、気になる人間がいます》
「誰だ?」
《JIN_KIRISHIMAのアカウントと同一の魔力波形です。……霧島迅です》
俺は顔を上げた。
南大沢ダンジョンの入口から少し離れた場所に、人影があった。
黒い戦闘スーツ。長槍を背負った長身の男。朝の光の中で、こちらをまっすぐ見ていた。
霧島迅だった。
俺は少し間を置いてから、近づいた。
*
霧島は動かなかった。俺が近づいても、表情を変えない。
「新宿が終わったと聞いた」
「終わった」と霧島は言った。低く、よく通る声だった。配信で聞いたのと同じ声だ。「南大沢は?」
「終わった」
「そうか」
短い沈黙の後に、霧島が南大沢の入口の方を見た。大隊の隊員が走り回っている。報道のドローンが増えている。
「新宿を片付けてから、ここに寄った。理由は特にない」
「……そうですか」
霧島がもう一度俺を見た。
「お前が黒猫ちゃんねるか?」
俺は少し間を置いた。
「そうです」
「配信は見ていた。第三回から」
第三回の配信は、三十五層の未知の魔獣戦だった。腕輪を外した場面。霧島が初めてコメント欄に「その判断は悪くない」と書いた回だ。
俺は夜明け前の布団の中で、画面を眺めていたことを思い出した。
あの頃の俺には、まるで関係ない世界だと思っていた。
「あの回から、ずっと見ていてくれたんですか?」
「ああ、見ていた」霧島は少し間を置いた。「悪くなかった」
それだけだった。
それだけなのに、なぜかじわりと、何かが胸の奥に落ちて行く。
イゾルデが俺の肩で「なぁ~」と小さく鳴いた。
霧島がイゾルデを見た。
「……黒猫か?」
「黒猫だにゃ。お前はJIN_KIRISHIMAにゃ」
霧島の目が、わずかに細くなった。驚きを抑えているのか、それとも笑いを堪えているのか、判断がつかなかった。
「喋るのか?」
「喋るにゃ」とイゾルデはあっさり言って、霧島を品定めするように見た。「霧島は、強いにゃ。本物にゃ」
「お前に言われるとは思わなかった」
ソフィアが俺の隣に来て霧島を見た。霧島がソフィアを見た。
「白い剣士か?」
「そうだ」ソフィアは少し顎を上げた。「剣筋がいい、と言ったのはあなたか」
「言った」
「……ふん」ソフィアは視線を逸らした。悪くなさそうな顔だった。
霧島が俺に向き直った。
「お前に一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「配信を続けるのか? これだけのことがあった後でも」
俺は少し考えた。
登録者三百八十万人。今日のスタンピードが収まれば、また増えるだろう。カネゴンが次の配信を待っている。霧島が、第三回から今日まで見ていた。
「続けます――悠々自適に生きるための仕事なので」
霧島がそれを聞いて、少しだけ——本当に少しだけ、口元が動いた。
「……そうか」
それが、答えだったのかもしれない。
霧島が背を向けた。
「俺も見ている」と歩きながら言った。「次も見る」
振り返らなかった。
人混みの中に、黒い背中が消えていった。
*
ソフィアがその背中を見ていた。
「……あれが、霧島迅か?」
「そうです」
「思ったより、無口だった」
「配信でもそうです」
「見ていたのか?」
「少しだけ」
イゾルデが「本物だったにゃ」と満足そうに言った。
《ご報告があります。本日の配信の登録者数ですが、今朝のスタンピード関連ニュースで黒猫ちゃんねるが言及されたため——》
「後でいいです。今は、朝飯を食いたい」
《……承知しました》
*
スマホを見ると、美紗からメッセージが来ていた。
「魔神様、お疲れ様でした。配信、また見ます」
それから楠木からも。「証言は終わりました。あとは任せます」
彰彦さんから。「新宿、抑えました。全員無事です」
柚葉からは。「お兄ちゃん、無事だよね? 無事じゃなかったら怒るからね」
俺は全員に短く返信した。「無事です」
イゾルデが肩の上で「なぁ~」と鳴いた。朝の空気の中で、その声はいつもより少し軽かった。
「腹が減ったな」
「なぁ~!」とイゾルデが声を上げた。「ご飯にゃ!」
「どこか開いてる店を探すか」
「早くするにゃ」
ソフィアが隣を歩きながら、小さく「私も」と囁いた。
南大沢の朝が、始まっていた。
★ここまで読んでいただき、ありがとうございます。★
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