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第29話 楠木壱成は、選ぶ

 楠木壱成は、自室の椅子に座ったまま、夜明けを迎えた。


 眠れなかった。


 昨夜、美紗は帰ってきたのに気が付いていた。

 玄関で靴を脱ぐ音。廊下を通り過ぎる足音。そして自室のドアが閉まった音がしたからだ。


 楠木は声をかけられなかった。かける言葉がなかった。


 美紗は何も言わなかった。

 夕食も取らなかったし、朝になっても部屋から出てこなかった。ドアの前に食事を置いたが、手をつけた形跡はなかった。


 楠木はもう一度、昨夜の新宿の路地を頭の中で再現した。


 バン。倒れた見張り。仮面の人物。白銀の金髪の女。そして——柱の陰に半身を隠した制服姿の美紗。


 美紗が自分の部下を尾行していた。


 それだけで、全てが分かる。美紗は知っていた。あるいは、知ろうとしていた。

 楠木は手帳を開いた。これまで書き留めた観察記録が並んでいる。神楽凪の動き。仮面の配信者との一致。腕輪の謎。デバフの声なし発動。


 そして昨夜追加したもの。


 角。仮面の上から生えた、二本の角。レベル規格外。あれは——人間ではない。


 楠木はペンを置いた。


 この情報を大公に渡せば、大公は動く。神楽凪という存在を「排除ではなく利用」しようとするか、あるいは脅威と判断して潰しにかかるか。どちらにしても、凪の周囲にいる人間——柚葉、一条彰彦、そしておそらく美紗も——が巻き込まれる。


 楠木がゆっくりと立ち上がると、窓の外が白み始めていた。


  *


 午前中に、大公の使者から連絡が来た。


『昨日の南大沢の件について、大公がお聞きになりたいとのことです』


「分かった。午後に伺う」


 楠木は電話を切って、鏡の前に立った。


 五大華族に準ずる名家の出。特級探索者。ブルーブラッドの主力。大公の計画の実行部隊。それが楠木壱成という人間の、表の輪郭だ。


 裏の輪郭は——十六歳の娘が、父の部下を尾行して、真実を見てしまった男、だ。


 どちらが本物かと問われれば、答えは出ない。ただ——どちらを選ぶかなら、答えは出た。


 昨夜、美紗のドアの前に食事を置いたとき、楠木は気づいた。

 美紗はまだ、逃げていない。

 部屋から出てこないのは、向き合う言葉を探しているからだ。逃げるなら、夜のうちに家を出ていた。あの子はそういう子だ。


 「逃げない」という配信者の言葉を、美紗は好んでいた。


 父親が逃げるわけにはいかない。


  *


 午後、楠木は大公の滞在先であるホテルの最上階に向かった。


 エルマキシム大公。セントアーリア公国の大公。外交官という名目で日本に長期滞在している、この男の本当の目的を、楠木は知っている。


 ただし——全てを知っているわけではない。


 応接室に通されると、大公は窓際に立っていた。五十代。白髪交じりの髪。穏やかな顔の作り方を知っている男の顔だ。


「楠木さん、昨日の南大沢の件を聞かせてください。村神から報告は受けましたが、あなたの目で見たものを直接聞きたい」


「はい」と楠木は言って、椅子に座った。「村神が十層で仮面の人物と遭遇しました。交戦には至らず、村神側が引きました」


「仮面の人物とは」


「黒猫ちゃんねるの配信者と思われます。詳細は不明ですが、村神が引いたことから、相当の実力者であることは確かです」


 大公がじっと楠木を見た。


「それだけですか」


「はい、私は現場から離れた位置にいたため、直接の確認はできていません」


 声は揺れなかった。膝の上に置いた手が、拳になりかけていたのを意識して開いた。


 嘘だった。


 楠木は十層の入口近くにいた。一部始終を見ていた。角も見た。バッジも見た。

 大公の目が、楠木の目から離れなかった。


「楠木さん、あなたは優秀な観察者だ。離れた位置から見ても、あなたならもっと多くのことを把握しているはずです」


「申し訳ありません。昨日は別の件で注意が分散していました」


 また嘘だった。


 大公が少し間を置いた。


「……分かりました」と大公は言って、窓の外に目を向けた。「村神には追加の調査を指示します。神楽凪という探索者と仮面の配信者の関係、引き続き調べさせます」


「はい」


「あなたには別の任務をお願いしたい。一条グループへの情報工作の件を、引き続き担当してください」


「承知しました」


 楠木は立ち上がって、一礼した。

 応接室を出るとき、大公の声が背中に向いた。


「楠木さん。お嬢さんは、お元気ですか」


 楠木の足が、一瞬止まった。


「……はい。おかげさまで」


「それは良かった。大切にしてください」


 廊下を歩きながら、楠木は表情を変えなかった。歩幅も変えなかった。背中に大公の視線があるかもしれない、と思った。なかったとしても、同じことだ。


 エレベーターに乗って、扉が閉まってから、ゆっくりと息を吐いた。


 大公は知っている。美紗のことを。それを、今日わざわざ口に出した。

 脅しではない。念押しだ。「大切なものがあるなら、逆らうな」という意味だ。

 楠木はスマホを取り出した。

 神楽凪の番号を見た。ダンジョン庁内の協力者から流してもらった、本人には知られていない番号だ。

 まだ、連絡を取ったことはない。

 楠木はスマホをしまった。


 今日ではない。ただ——今日、一つだけ決めた。


 大公に渡す情報を、楠木は選ぶ。全部は渡さない。

 それが何を意味するか、楠木には分かっていた。


  *


 夜、帰宅すると、美紗がリビングにいた。


 テーブルの前に座って、スマホを見ていた。楠木が入ってくると、顔を上げた。

 二人の間に、沈黙があった。


「お帰り」


「ただいま」


 また沈黙があった。


「昨日のこと。聞かないの?」


「聞こうとしていた。ただ、言葉が見つからなかった」


 美紗がしばらく楠木を見た。


「私が見たこと。お父さんは知ってるんだよね」


「知っている」


「……説明してくれる?」


 楠木は椅子を引いて、美紗の向かいに座った。


「全部は話せない。ただ——お前に嘘はつかない」


「全部話せない、でも嘘はつかない」と美紗は繰り返した。「どういう意味」


「俺が関わっていることには、お前に話せないことがある。ただ、昨日の件は——俺の判断ミスだ。お前が危ない目に遭う可能性があった。それは俺の責任だ」


 美紗がしばらく黙っていた。


「あの人たちが連れ去ろうとしてた女の人」と美紗は言った。「助けに来た仮面の人、配信の魔神様だよね」


 楠木は答えなかった。


「……そうか」と美紗は言って、スマホを見た。「魔神様は、逃げない人だから」


 美紗がスマホをしばらく眺めた。黒猫ちゃんねるのコメント欄だった。


 今日も「JIN_KIRISHIMA」の高評価マークがついていた。あの霧島迅が定期的に見ているのを、美紗はずっと前から知っていた。特級が認めている配信だ、という声がコメント欄に流れるたびに、なんとなく誇らしい気持ちになる。自分が応援している人間が、本物だということの証明のように思えた。


 それ以上は何も言わなかった。


 ただ、今夜は同じ食卓で飯を食った。会話はほとんどなかったが、美紗は食事を残さなかった。


 楠木には、それで十分だった。


【★あとがき★】

「 第三章 陰謀と激突」が完了しました。

ここまでの読書感、いかがでしょうか?

第一部の完結は「第四章 決戦と新世界」の第30話~35話です。


少しでも「面白そう!」「期待できる!」そう思っていただけましたら

ブックマークと高評価をよろしくお願いいたします。

皆さまからの応援が、なによりものモチベーションとなります。


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