第28話 仮面の下
柚葉が彰彦さんの別邸に落ち着いたのを確認して、俺はペントハウスに戻った。
その夜は眠れなかった。
眠れない理由が、怒りなのか安堵なのか、自分でも判断がつかなかった。柚葉は無事だった。それは間違いない。ただ——手首に残った赤みを思い出すと、胸の底に何かが澱んだ。妹の手首だ。三十五年生きてきた俺の妹の、二十四年生きてきた手首だ。そこに、見知らぬ男の指の跡があった。
《腕輪の感知値が普段より高めです》エルの声が静かに耳に届いた。《魔力が微かに漏れています。意識して抑えてください》
「分かってる」
腕輪を確認した。二つとも装着している。それでも、内側から押し上げてくる感触があった。
イゾルデが隣に座って、何も言わなかった。ただ、そこにいた。
*
翌朝、彰彦さんから連絡が来た。
「村神さんから接触がありました」
「村神が直接?」
「代理人経由ですが、実質的には本人の言葉です。内容は——昨夜の件は行き過ぎだった、と。ただし謝罪ではなく、取引の打診です」
「取引」
「神楽凪という人物が一条グループと組んでいる。その協力関係を解消するなら、今後は干渉しないという内容です」彰彦さんが少し間を置いた。「私は断りました。ただ、凪さんにも共有しておくべきだと思って」
「ありがとうございます。村神は、俺のことをどこまで把握しているんですか」
「神楽凪という探索者が一条グループと関係を持っていること、5級免許を持つ若い男であること。それだけのようです。仮面の配信者との繋がりは、まだ見えていないと思います」
まだ、見えていない。
「動きに注意してください。村神が直接来るとしたら、次は早い」
「同意します。凪さんも、無理はしないように」
電話を切った。
*
午後、如月からメッセージが入った。
「村神が今日、南大沢ダンジョンに入っています。楠木壱成と数名の構成員も一緒です。昨夜の件への報復の可能性があります。情報共有のため、私も向かいます」
同時に、エルの声が頭の中に響いた。
《柚葉さんが今日、研究施設に出勤しています。昨日の件があったにもかかわらず》
「なぜ止めなかった」
《彰彦さんに連絡を入れましたが、スマホが圏外でした》
俺は立ち上がっていた。仮面と装備を手に取った。
「行く」
イゾルデが飛び起きた。「ボクも行くにゃ」
「ああ」
ドアを出る直前、如月へ一言送った。「先に入ります」
《ソフィアさんにも状況を送ります》とエルが言った。《南大沢に向かえるか確認します》
「頼む」
電車の中で仮面を被った。フードを深く被れば人目は気にならない。南大沢に着く頃には、俺は仮面の魔神様になっていた。
*
南大沢ダンジョンの入口に着くと、坂崎さんが飛び出してきた。顔が青ざめていた。
「——中で騒ぎが起きています」坂崎さんは仮面の人物を一瞬だけ見て、それから続けた。「一条グループの研究員の方が、村神のパーティーと鉢合わせて。お願いします」
俺は走った。
*
十層で見つけた。
柚葉が壁際に追い詰められていた。村神の構成員が三人、周囲を囲んでいた。柚葉の顔が青白い。
そして——村神康彦が、五メートル先に立っていた。
慇懃な笑みを浮かべた、大柄な男だ。
「脅かしているわけじゃないですよ」村神がゆっくりと歩み寄った。「ただ、あなたのお兄さんに伝言をお願いしたくて。一条グループとの関係を見直す気があるかどうか——」
「それだけで、終わりませんよね」柚葉の声が硬かった。「昨夜も同じことをしたじゃないですか」
「昨夜は部下が行き過ぎました。今日は私が直接来ました。誠意を示しに」
村神が柚葉の腕に手をかけた。
その瞬間、俺は通路の入口に立っていた。
「離してください」
村神が振り返った。仮面の人物を見た。一瞬、品定めするような目をした。
俺はここで気づいた。バッジをつけたままだった。
外す間もなかった。
村神の目がバッジに向いた。数字を読んだ。それから仮面を見た。何かを考えている顔だった。仮面を被った人間が、なぜ5級のバッジをつけているのか——処理できていないようだった。
「柚葉の腕から手を離してください」
「もちろん離しますよ。ただ、少し話を」
「今すぐ」
村神が少し目を細めた。笑みが薄くなった。
「5級の探索者が、特級に向かってその口の利き方は——」
村神が柚葉の手首をわずかに握り直した。
そのとき、腕輪が熱くなった。
柚葉の手首。昨夜も同じ場所が赤くなっていた。また同じことをしている。この男が、また——
何かが、胸の底で外れた。鍵が壊れるような感覚だった。止めなければならないと分かっているのに、止める理由の方が遠くなっていく。
《警告》エルの声が鋭くなった。《魔力が急激に上昇しています。安全弁が——》
腕輪が、かすかな音を立てた。
高い、細い音だった。
「お兄ちゃん——」柚葉が俺を見ていた。俺の頭を見ていた。
頭に、何かが生えてくる感触があった。鈍い圧力が、内側から皮膚を押し上げる。仮面の縁に何かが触れる。違う、仮面の縁の上に、何かが出てきている。
仮面の上から、角が出てきた。
抑えようとした。抑えられなかった。腕輪の安全弁が作動しているのに、それでも抑えきれない。
自分の体が、自分のものでなくなっていく感覚があった。怒りが、腕輪の制御の隙間からあふれ出ている。
村神が、俺の頭を見た。
笑みが、消えた。
「……何だ、それは」
通路が静まり返った。
村神の構成員が後退した。誰も動けなかった。
俺は一歩、前に踏み出した。
「柚葉、離れろ」
村神が、機械的に手を離した。柚葉が俺の後ろに回った。
村神の目が、角を見ていた。特級探索者の目が、明らかな怯えを映していた。
「……今日のところは」村神が構成員に目配せした。「引く」
村神のパーティーが、通路を引き返していった。足音が遠ざかった。
静寂が戻った。
俺はバッジを外した。遅すぎたが、今更だ。
《村神の表情から判断するに、仮面の人物と神楽凪の紐づけにはまだ至っていないと思われます》とエルが言った。《仮面を被った5級探索者という矛盾した情報が、処理を遅らせている可能性があります。ただし確証はありません》
「分かった」俺は呟いた。取り返せない失敗だが、最悪の結果にはなっていない。あとで考える。今は柚葉だ。
*
柚葉がゆっくりと俺の前に回った。
俺の頭を見た。角を見た。それから俺の目を見た。
「お兄ちゃん」静かな声だった。「痛くない?」
「痛くない」
「そう」柚葉がゆっくりと息を吐いた。「よかった」
泣いていなかった。震えてもいなかった。柚葉はただ、俺を見ていた。
《魔力が安定し始めています》とエルが言った。《角は自然に収まるまで少し時間がかかります》
イゾルデが俺の隣に立った。何も言わなかった。ただ、そこにいた。
通路の奥から、足音が二つ聞こえた。
如月だった。その後ろにソフィアもいた。それぞれ別方向から駆けつけて、ここで合流したらしい。
如月が俺を見た。仮面を見た。角を見た。
長い沈黙があった。
如月の目が、仮面から俺の目に向いた。
「……神楽さん、ですね」
否定しても意味がなかった。
「そうです」
如月がゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」如月の声が低くなった。「だから、世論だと思ったわけか」
自嘲するような、しかしどこか納得したような声だった。
「一つ聞いていいですか」如月が続けた。「登録者は今、何人いるんですか」
「四十万を超えたあたりから数えるのをやめました」
如月が少し黙った。「……そうですか」何かを飲み込んだような間があった。
「霧島迅という配信者を知っていますか」如月が続けた。
「知っています」
「あの男が、あなたの配信を定期的に見ている。庁内でもそれは話題になっていた。特級探索者が認めた配信、という見方が広がっている。それがある意味——あなたへの盾になっています」
俺は少し間を置いた。
「霧島さんが盾になっているとは思っていませんでした」
「本人は意図していないでしょうが」如月は少し目を細めた。「配信を続けてください。それ自体が、今は力になっている」
ソフィアが角の生えた俺を見て、一瞬足を止めた。それから静かに言った。
「……やっぱり、普通じゃなかったのか」
「普通じゃないです」
「そう」ソフィアが村神の去っていった通路を見た。「追うか?」
「今日は追わなくていいです」
「分かった」
四人と一匹が、狭い通路に揃っていた。角が、ゆっくりと収まり始めた。
*
その夜、ペントハウスで如月と向き合った。
スサノオの末裔であること。魔神に進化したこと。レベルのこと。腕輪のこと。深淵ダンジョンのこと以外は——話せる範囲で、全部話した。
如月は途中で何度か目を細めたが、遮らなかった。最後まで聞いた。
「……信じますよ」如月が最後に告げた。「信じない理由がない」
「ありがとうございます」
「ただ」如月は俺を見た。「二つ聞かせてください」
「どうぞ」
「一つ目。あなたはこの国をどうしたいんですか。その力があれば、どうにでもできる」
「悠々自適に生きたいんです。それだけです。ただ、そのためには、この国が誰かに乗っ取られると困る」
如月が少し笑った。
「……それだけか」
「それだけです」
「二つ目」如月は少し間を置いた。「私はダンジョン庁の人間です。今日見たことを報告する義務がある。それは分かっていますか」
俺は如月を見た。
「分かっています。だから聞きます。報告しますか」
如月がしばらく黙っていた。
窓の外の夜景を一度見て、それから俺に視線を戻した。
「——しません。今は」
「今は、というのは」
「あなたが報告に値しない行動を取り続ける限り、しません」如月の声は静かだったが、芯があった。「ただし条件があります。私がこれを報告しない理由を、あなたは作り続けなければならない。庁内の腐敗より、あなたの存在が脅威だと判断した瞬間——その判断は変わります」
如月のコーヒーカップから、かすかに湯気が立っていた。
「公平な条件だと思います。受け入れます」
「もう一つ」如月は少しだけ声をゆるめた。「悠々自適、というのは——達成できそうですか」
俺は少し笑った。
「まだ全然です」
「そうですか」如月はコーヒーカップを置いた。「では、お互い頑張りましょう」
窓の外に、夜の東京が広がっていた。
今夜、何かが変わった。失ったものもある。得たものもある。
どちらが大きいかは、まだ分からなかった。
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