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第1話 最悪の朝、そして黒猫

 視界が、不吉な赤に染まっていた。


『おい、神楽! このログは何だ! なぜ止まった、なぜ直らない!』


 鼓膜を突き破らんばかりの罵声。冷徹な蛍光灯の下、俺、神楽凪(かぐらなぎ)は、震える指先でキーボードを叩き続けていた。


『……申し訳ありません。ですが、このバグは元々の仕様設計の段階で――』

『言い訳を聞いてるんじゃない! お前が無能なせいでプロジェクトは破綻寸前だ。責任、取れるんだろうな?』


 田所の顔が、どす黒い霧のように膨れ上がる。周囲の同僚たちは皆、死んだ魚のような目でディスプレイを見つめ、石像のように固まっている。

 心臓が、早鐘を打つ。息ができない。胸の奥が、熱い鉄を流し込まれたように――。


『お前のせいだ。全部お前のせいだ。なぁ、神楽(かぐら)ぁ?』


 違う、と言おうとした。証拠はこっちにある、と反論しようとした。

 だが、夢の中の俺は、金縛りにあったように声が出ない。

 必死に喘ぐ俺をあざ笑うように、田所の顔が膨張していく。提灯持ちの坪井も、壊れた玩具みたいにケタケタと笑っている。

 目の前に突きつけられる退職届。サインしろ、という無機質な声。


『お前みたいな使えない人間、どこ行っても同じだ』


 ――そこで、意識が跳ねた。


 視界に飛び込んできたのは、見慣れた実家の天井だ。古い木材の染みと節が、今日もいつもと同じ場所で俺を見下ろしている。


 枕元のスマホを取る。時刻はまだ夜明け前だ。


 こういうとき、何も考えずに済む動画を流すことがある。

 適当に開いたおすすめ動画は探索者配信のアーカイブだった。


 配信者の名前は、霧島迅(きりしまじん)

 特級探索者にして、国内で最も知名度の高い配信者の一人だ。


 画面の中では、黒い戦闘スーツに身を包んだ男が、巨大なモンスターと対峙していた。

 手にしているのは長槍。切っ先にまとわりついた紫電が、暗いダンジョンの空気を裂くたびに鋭く爆ぜる。無駄のない踏み込み、最小限の動き、そして一撃ごとに積み重なっていく確実な優位。派手さはあるのに、やっていること自体はどこまでも冷静だった。


 コメント欄は、半ば熱狂状態だった。


【コメント欄】

JIN信者A:きたあああ

迷える剣士:やっぱ霧島さん別格だわ

匿名1号:このモンスター相手に間合い詰めるの怖すぎる

南多摩ダイバー:あの判断速度、やっぱ特級なんだよな

名無しさん:雷槍きた

黒まめ:相変わらず容赦ないなこの人


 霧島迅は喋らない。

 少なくとも戦闘中は、ほとんど。必要なことだけ短く言い、余計な煽りも感想も挟まない。それでも配信として成立しているのは、あの男の一挙手一投足そのものに価値があるからだろう。


 槍が閃き、モンスターの前脚を断ち切る。

 巨体が傾いだ一瞬を逃さず、霧島は雷をまとった穂先を喉元へ突き込んだ。鈍く重い断末魔が響いたあと、ダンジョンの空気がふっと緩む。


【コメント欄】

迷える剣士:終わったあああ

匿名1号:早すぎる

南多摩ダイバー:今の締め、教本みたいだったな

名無しさん:この人ほんと人間か?

JIN信者A:これが特級

名無しさん:つよ


 ようやく霧島が口を開いた。


『……今回はここまでだ。奥は配信向きじゃない』


 低く、よく通る声だった。

 たったそれだけ言って、配信は終わる。


 派手に締めるわけでも、視聴者に媚びるわけでもない。

 けれど、あの短いやり取りだけで満足してしまう人間が大勢いるのも、なんとなく分かる気がした。


 特級探索者、霧島迅――画面の向こうにいる、本物の人間。


 ダンジョンが現れて十年。探索者配信は、今や珍しくもない娯楽になった。

 命懸けの戦いを、家の布団から眺められる。平和な時代なのか、壊れているのか、たまに分からなくなる。


「俺とは、まるで関係ない世界だけどな」


 そこで、鈴の音みたいな声がした。


「……相変わらず、貧相なツラにゃ」


 視線を動かすと、枕元に「それ」がいた。

 真っ黒な、長い脚と尻尾、驚くほど美しい猫だ。

 金色の瞳が、品定めをするように俺を見つめている。首輪も迷子札もない。そもそも、窓もドアも閉まっているはずのこの部屋に、どうやって侵入したのか。

 俺は三秒ほど、その猫と沈黙のラリーを交わした。


 神楽凪かぐらなぎ、三十五歳。職業、無職。現在、実家で独り住まい。


 ブラック企業を不当解雇されてから数か月。最初の一か月は眠れなかった。次の一か月は泥のように眠りすぎた。そして今は、過去の亡霊にうなされて飛び起きる。進歩しているのか退行しているのか、自分でももう判断がつかない。


「……お前、どっから入った」

「窓にゃ」


 猫が、喋った。

 頭がそうとうやられているらしい。幻覚を見るようになるとは。

 俺はゆっくりと身を起こし、背後の窓を確認する。クレセント錠はしっかりとかかったままだ。


「……閉まってるぞ」

「閉まってたにゃ」


 黒猫は当然のように言って、優雅に欠伸をした。「でも入れたにゃ。ボクを誰だと思ってるにゃ?」


 論理的な会話は期待できない。俺は深いため息をつき、もう一度猫を観察した。

 喋る猫。金色の瞳。ビロードのような黒毛。

 悪夢の続きかとも思ったが、頬をつねるとしっかり痛い。……どうやら、現実(地獄)はまだ続いているらしい。


「お前、何者だ?」

「イゾルデにゃ」


 猫――イゾルデは尻尾をピンと立てて答えた。「凪、来てほしいところがあるにゃ」

「どこに」

「蔵にゃ」


 神楽家の蔵。母屋から少し離れた裏庭に建つ、築百年を超える古びた建築物だ。柱は傾き、床も腐りかけているはずで、普段は誰も近づかない。


「あそこがどうした。ネズミでも出たか?」

「見ればわかるにゃ」


 イゾルデはそれだけ言い残すと、ひらりと窓際へ歩き出した。「来るにゃ。運命を変えたいならにゃ」


 運命――

 三十五歳の無職には、あまりにキラキラしすぎて吐き気がする言葉だ。

 しかし――この数か月、俺は「何もしない」という選択だけを繰り返してきた。

 喋る猫に蔵へ誘われる。客観的に見れば狂気だが、何もしないよりは、狂っていた方がまだマシかもしれない。


 俺はハンガーに掛かっていたパーカーを羽織り、猫の後を追った。


  *


 五月の夜明け前の空気は、肌を刺すように冷たかった。

 湿った草を踏みしめ、庭の隅にある蔵の前に立つ。

 重厚な木の扉が、なぜか数センチだけ開いていた。そのわずかな隙間から、淡い光が漏れ出している。

 その光の色が、明らかに異常だった。

 電球の暖色でも、懐中電灯の白光でもない。青白く、まるで生き物のように揺らめく燐光。


「入るにゃ」イゾルデが扉の隙間へ吸い込まれていく。


 俺は一度、大きく深呼吸をしてから、その扉を押し開けた。


  *


 ――蔵の中に、世界が変わる「穴」が開いていた。


 そこに鎮座していたのは、古代遺跡を思わせる重厚な石造りの門構えだった。

 左右にそびえる無骨な石柱。その間に広がる、地下へと続く漆黒の開口部。石柱の表面に刻まれた未知の文様が、呼吸するように青白く明滅している。

 埃っぽい蔵の空気と、使い古された農具。それら日常の光景の中に、その「異界」はあまりに自然に、そして傲慢に存在していた。


「ダンジョン、だよな。これ」

「なぁ~」


 イゾルデが肯定するように鳴く。

 世界中にダンジョンが発生して十年。動画やニュースで嫌というほど見てきた光景だ。しかし、それが自分の家の蔵にあるというのは、文字通り次元の違う話だった。


 ダンジョンがあるということは、イゾルデはここから出てきたモンスターか? いや、危険な感じはしない。どちらかというと妖精の類のように思える。


「入るのか? ここに」

「入るにゃ」

「正気か。俺は探索者じゃないし、武器も防具もないんだぞ」

柚葉ゆずはにゃ」

「お前、妹を知っているのか?」

「なぁ~」


 イゾルデが視線を向けた先。蔵の隅に、場違いな段ボール箱が置かれていた。

 妹の柚葉。ダンジョンギア開発の研究員であるあいつが、「いつか兄ちゃんがやる気になった時のための保険」と言って実家に送りつけてきた、ダンジョンギアの一式セットだ。


「……あいつ、どこまで見越してやがったんだ」


 俺は苦笑し、段ボールの封を切った。


  *


 十分後。俺は最低限の「形」を整えていた。

 軽量の防護インナーに、膝と肘のプロテクター。ヘッドライトを装着し、手には護身用の短剣。サイドポーチには回復薬が三本。

 プロの探索者からすれば笑われるような軽装備だが、ネットで調べ尽くした知識によれば、一層を偵察するだけならこれでも過剰なくらいだ。

 スマホの時計は午前四時過ぎ。柚葉への連絡は……まぁ、生きて戻ってからでいいだろう。


「行くか」

「なぁ~」


 イゾルデが先行して階段を降り始める。俺はヘッドライトを点灯させ、その背中を追った。


  *


 地下に足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気が変わった。

 ひんやりと冷たいのに、どこか甘い香りがする。これが、魔力の気配というやつか。

 通路は整然とした石造りで、壁に群生する発光苔が歩くのに十分な明るさを提供していた。

 心臓の鼓動が耳元でうるさい。

 五分ほど慎重に進んだところで、ついに「それ」が現れた。


 スライム。


 壁際に張り付いていた半透明の青緑の塊が、俺の体温を察知して、ぶるりと震えながら這い寄ってくる。

 俺は短剣を抜いた。

 動画では何万回も見た光景だ。だが、実物はまるで違う。

 特有の湿った音。生臭い匂い。そして、生物としての圧倒的な質量感。


「――おらぁッ!」


 無我夢中で短剣を叩きつけた。刃が弾力のある肉を裂き、スライムが二つに割れる。

 飛び散った体液が腕に触れ、じわりと熱を持った。弱酸性の刺激。慌てて袖で拭き取る。


 倒した。


 たったそれだけのことが、劇薬のように全身を駆け巡った。

 心臓が爆速で打ち鳴らされ、浅い呼吸が繰り返される。アドレナリンが、停滞していた俺の血を無理やり沸騰させていく。

 と同時に、体の芯で「カチリ」と何かが噛み合う音がした。

 内側から力が溢れ出すような、全能感に似た感覚。


「レベルが上がったにゃ」


 足元で、イゾルデが冷静に告げた。


「レベル……。俺が、ネオヒューマンになったのか?」

「なぁ~」


 覚醒。


 ダンジョンの魔力を浴び、戦闘という閾値を超えたことで、俺の遺伝子が書き換わったのだ。

 三十五歳、無職。人生の終着駅にいたはずの俺が、初めて「新しい種族」へと進化した瞬間だった。

 感慨にふける暇もなく、通路の奥から別のスライムの這う音が聞こえてくる。

 だが、今の俺に恐怖はなかった。


  *


 それから一時間。俺は一層の奥へと突き進んでいた。

 スライムを七体、ゴブリンを三体。

 一体倒すごとに、体が羽のように軽くなっていく。短剣を振る軌道が、吸い付くように最適化されていく。


「……ハ、あははっ!」


 笑いが漏れた。


「面白いな」と、思わず声に出した。


「なぁ~」とイゾルデが短く鳴いた。同意なのか、それとも当然だと言っているのか。


「お前は最初から、俺が戦えると思ってたのか」


「なぁ~」


 また同じ鳴き方だった。


 田所に罵倒され続けた三年間で、自分には何もないと思い込んでいた。だが、ここでは違う。戦えば戦うほど、俺という存在が強化され、肯定されていく。擦り減って消えかけていた自尊心が、モンスターの命と引き換えに埋め戻されていくようだった。

 やがて、通路の突き当たりに「異質な存在」が現れた。

 鉄と黒石を組み合わせた、重厚な二枚扉。

 表面には禍々しい紋様が刻まれ、そこから漏れる赤い光が、まるで心臓の鼓動のように脈打っている。


「ボス部屋の扉にゃ」


 イゾルデが足を止めて言った。


「ボス部屋……? 一層にそんなものがあるなんて聞いてないぞ」

「ここは普通のダンジョンじゃないにゃ。凪、準備はいいにゃ?」


 扉の拍動に合わせて、俺の血も激しく波打つ。

 この先に何があるのか。この扉を開けたら、もう「前の俺」には戻れない。


「入るのか」

「入るにゃ」


 イゾルデは俺の顔を見上げ、少しだけ柔らかく目を細めた。


「ボクが一緒にいるにゃ」


 その言葉が、どんな装備よりも心強かった。

 俺は震える手を扉にかけ、一気に押し開けた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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