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第2話 死と再生、そして魔神の産声

 その部屋は、絶望を形にしたような場所だった。

 高い天井には不気味に発光する赤い結晶が埋め込まれ、室内をどす黒い光で満たしている。

 そして広場の中央に、それは鎮座していた。

 三メートルを超える巨体。岩のように硬質な灰色の皮膚。丸太のような腕の先には、鋭い爪。

 頭部に生えた二本の角が、暴力の象徴のように突き出している。


「……嘘だろ。オーガじゃないか」


 ネットの攻略動画で何度も見た。中層以降に出現する、新人殺しの代名詞だ。

 一層の、それも自宅の蔵の中にいていい存在じゃない。

 オーガの紅い眼が、俺を捉えた。

 そこには、俺がかつて会社で浴びせられた「無能を見る目」と同じ、冷酷な品定めがあった。


 ——価値なし。


 そう判断したかのように、オーガが動いた。


「速っ——ッ!?」


 巨体に似合わない、爆発的な踏み込み。

 咄嗟に横へ跳んだが、回避が間に合わない。

 左肩に、大型トラックに衝突されたような衝撃が走った。

 視界が回転し、身体が石壁に叩きつけられる。


「ガハッ……ッ!?」


 肺から空気が強制排出され、プロテクターがひしゃげる嫌な音が響いた。

 立ち上がろうとしたが、左腕が言うことを聞かない。

 肩が外れたか、折れたか——どちらでもいい。同じことだ。


 オーガが、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 一歩ごとに、床が、俺の心臓と同じ速度で揺れた。


 必死に右手の短剣を構えるが、膝の震えが止まらない。

 ——死ぬのか。

 こんな、蔵の地下の、よくわからない場所で。


 ふざけるな、と思った。

 田所に三年吸い尽くされ、不当に放り出され、ようやく「何かしよう」と立ち上がった最初の夜に、これか。

 会社を追い出され、社会からも脱落し、最後は化け物の餌になって終わる——

 そんな締めくくりを、認めるわけには、いかない。


 ——認めたくなかった。


『ごめんにゃ、凪……』


 遠くで、イゾルデの声が聞こえた気がした。


 振り下ろされたオーガの拳が視界を埋め尽くし、俺の意識は深い闇へと落ちた。


  *


 次に目が覚めたとき、そこは「真っ白」な世界だった。


 石造りの美しいアーチ。清潔な白いリネン。

 暖炉では薪がパチパチとはぜ、心地よい熱を放っている。

 空気が、ひどく澄んでいた。

 身体を起こすと、つい数分前まで死にかけていたのが嘘のように、全身の痛みが消えていた。


「——目覚めましたか」


 鈴を転がすような、透き通った声。


 視線を向けると、ベッドの脇に一人の女性が立っていた。

 肩まで流れる輝かしい金髪と、深い湖のような碧い瞳。

 白いドレスを纏ったその姿は、この世の美しさをすべて凝縮したかのようだ。


 一瞬、呼吸を忘れた。

 ただ美しいだけではない。——年齢の読めない、深さがある。若々しい顔立ちの奥に、何百年、何千年という時間の層が沈んでいる。直視し続けるのが、苦しくなるような存在感だった。


「……ここは、どこなんですか。——あなたは、一体」


「私の領域です。あのままでは死んでいたあなたを、治療するために連れてきました」


 女性はヴァルナと名乗った。


 大精霊——。そう呼ばれる存在であること。そして、俺がここへ導かれたのは偶然ではないことを、彼女は静かに語り始めた。


「まず、謝らなければなりません。——あなたをオーガと戦わせたのは、私の意図です」


「……え。それは、どういう意味ですか」


「あなたの魂にかけられた『枷』を外すには、死の淵で精神と肉体を極限まで追い込む必要があった。……事前に説明せず、このような荒療治を選んだこと、どうか、許してください」


 ヴァルナは深々と頭を下げた。


 大精霊という超越者が、俺のような人間に——。

 怒りよりも先に、困惑が勝った。だが、不思議と嫌な気はしない。

 彼女の瞳には、嘘偽りのない慈しみがあったからだ。

 その慈しみの奥に、ひどく重い「何か」を抱え込んでいるようにも見えた。


 ヴァルナの話は、俺の想像を絶するものだった。


 地球とは別の宇宙にある世界『エーリス』。

 かつてそこを救った英雄、魔神スサノオ。

 グリウムという宇宙の魔王との、千年前の戦争。

 スサノオが自らの命と引き換えに魔王を倒したこと——。


「スサノオは……死んだ、ということですか」


「はい」とヴァルナは言った。声が、わずかに変わった。「千年以上前のことです。——ただ、私はまだ、その話をするとき、昨日のことのように感じます」


 超越者が、千年前の友人の死を、今も、昨日のように抱えている。

 その重さを、俺は、うまく受け取れなかった。

 ただ——暖炉の炎を見つめるヴァルナの目が、ほんの一瞬、揺れていたことだけは、はっきりと分かった。


 そして、その魔神の血を最も濃く受け継ぎ、力の発現を抑えるために生まれてすぐに彼女の手で「封印(枷)」を施された赤ん坊。


「それが——まさか、俺ですか。神楽凪、という、この俺が」


「はい。そして今、枷は外れようとしています」


 ヴァルナが俺の手にそっと触れた。


 その瞬間——。


 身体の奥底、魂の最深部で、巨大な熱源が爆発した。


「ッ、ああぁぁぁ——ッ!!」


 熱い。

 焦げるほどに、熱い。

 全身の細胞が、回路が、一気に書き換えられていく。

 指先から、足の爪先から、内臓の奥から、これまで眠っていた「別の俺」が噴き出してくる。

 背骨が軋む。視界が歪む。

 心臓が、違う律動で鼓動を始める。

 三十五年分の俺が、一度、根こそぎ解体されて、作り直されていく——。


 視界の端で、システムログのような光の文字が猛烈な勢いで流れ始めた。


《管理者権限を承認。血脈の枷を完全消去します》

《種族進化を実行——『魔神』へ》

《レベルアップ……レベルアップ……》

《——Level1024に到達しました》


「……1024、だって?」


 嘘だろ、と口の中で呟いた。

 元システム開発者としての本能が、真っ先にその数字に反応する。

 ——2の10乗。

 ネオヒューマンの限界値「99」などという端数とは、そもそも次元が違う。桁の切り方が違う。システムの設計思想が違う。


 何者かが、最初から、きちんと計算してこの値を置いた。——そう感じさせる数字だった。


 嵐のような力が、ゆっくりと収まっていく。

 落ち着いてから、俺は自分の身体が劇的に変化していることに気づいた。

 近くにあった姿見を、恐る恐る、覗き込む。


 そこにいたのは、三十五歳のくたびれた男ではなかった。


 精悍で、しなやかな筋肉を宿し、どこか神秘的な雰囲気を纏った……十七歳当時の、若かりし頃の自分だ。


「……若返った、というのか。俺が。——それに、この額の感触は、何だ」


 恐る恐る、頭に触れる。

 滑らかで、硬い「角」の感触があった。間違いようのない、角だ。


「魔神の証です」とヴァルナは言った。「力を使わないときは、隠すことができますよ」


 ヴァルナのアドバイスに従い、意識を内側に畳み込むイメージをすると、角はすっと消えた。


 ヴァルナは少しだけ微笑み、俺の目を見て言った。


「神楽凪。——生きなさい。英雄スサノオが、世界のために諦めるしかなかった平穏な時間を。今度はあなたが、その力で掴み取るのです」


 その言葉の重さが、ブラック企業でボロボロになっていた俺の心に、熱い芯を通した。


 何と返せばいいか、分からなかった。

 「はい」でも「ありがとうございます」でも、軽すぎる気がした。


 だから、ただ一度だけ、深く頭を下げた。


  *


 光が収まると、俺は元の蔵の中に立っていた。


 ダンジョンの入り口は消え、そこにはただの古びた蔵の日常が戻っていた。

 唯一の違いは、俺の隣に、一匹の黒猫がいること。


「……待ってたにゃ」イゾルデが、申し訳なさそうに俺を見上げている。「怒ってるにゃ?」


 少し考えてから、彼女を抱き上げた。ふわりとした、清潔な毛並みの感触。


「——怒ってないよ。ただし、次に同じことをやる時は、先に言ってくれ。——今回は、さすがに、死ぬかと思った」


「ごめんにゃ、凪」


 イゾルデが「なぁ〜」と甘えるように鳴く。

 小さな身体の重みと、柔らかい体温が、現実をゆっくりと手元に引き戻してくれる。


 蔵の隙間から、五月の清々しい朝の光が差し込んでいた。


 レベル1024。種族、魔神。


 ——さっきまで、オーガに殴り飛ばされて死にかけていた男の肩書きとは、到底思えない。


 不当に奪われた俺の人生。

 今度は、この力を使って「悠々自適」に、やり直させてもらおう。


「——行くか、イゾルデ。今日はまず、飯だ。生き返った男は、まず腹ごしらえと決まってる」


「なぁ〜!」


 俺の、新しい「仕事」が、ここから始まった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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