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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第14章 画面の向こうに触れられない恋【自覚編】

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15.選んだ理由は説明できない


 正直に言えば、アプリというものに、何ら期待はしていなかった。長期入院という空白期間。


 目に見えて落ちていく筋肉、底を突いた体力。頭の中を占めていたのは、「果たして元の場所に戻れるのか」という、出口のない不安ばかりだった。


 元ジムトレーナーという肩書きが、今は呪いのように自分を縛る。かつては他人の身体を導いていた自分が、自分の身体一つ、満足に扱えなくなるなんて。


(……本当に、情けないな)


 病室の天井を見上げ、独りごちる。そんな自嘲に疲れたとき、何となくスマートフォンのストアを眺めていて、ふと目に留まったのが『インナーマッスルに届け!』だった。名前は、正直言って少しふざけている。だが、添えられた説明文は、驚くほど理路整然としていた。


(内側から整える、か……)


 派手なCGによるビフォーアフターの誇張もない。短期間での劇的変化を謳う煽り文句もない。ただ、一歩ずつ着実に「元の身体を取り戻す」ための道筋が、静かに綴られていた。


 それが、擦り切れていた自分の胸に、妙に深く刺さった。

 インストールを済ませ、アプリを起動する。チュートリアルをなかば流し読みしながら、「どうせ最後は、よくある美少女キャラクターの着せ替えで終わるんだろう」と、どこか冷めた目で見ていた。


 ───そのときだった。


 画面に現れた、一人の女性トレーナー。赤みを帯びた髪をタイトにまとめ、しなやかな体躯を包む。無駄を削ぎ落とした、機能美の極地のような筋肉。


(……ッ)


 声が、出なかった。可愛い、とか。綺麗だ、とか。そんな軽い感想なんて、欠片も浮かんでこなかった。


(この人だ)


 胸の奥が、物理的な衝撃を受けたようにざわりと震えた。それが理想の体型だったからではない。彼女の佇まいに宿る、「在り方」そのものに目を奪われたのだ。極限まで鍛え上げているのに、決して他者を威圧しない。圧倒的な強さを持ちながら、押しつけがましさが微塵もない。


(……これは、生き方だな)


 自分が絶望の中で手放してしまった、自分自身を信じるという矜持。それを、画面の中の彼女は、今も鮮烈に持ち続けている気がした。


 【教官として、彼女を選択しますか? 】


 画面に浮かんだ最終確認のボタン。他にも、華やかな衣装に身を包んだ選択肢はいくらでもあったはずなのに、指先に迷いは一切なかった。


(ああ、間違いない)


「お願いします」


 祈るような、独り言のような呟きとともに、ボタンをタップした。その瞬間、身体の芯が一気に熱を帯びる。冷え切っていた血が、音を立てて巡り始めるような感覚。


(何だ、この感じは……)


 期待だろうか。それとも安心だろうか。いや、違う。


(……高揚、か)


 病を得てから、ずっと忘れていた感情。未来を想像することを「贅沢」だと決めつけ、諦めることで自分を守ってきた。───けれど。


(この人となら。この人の言葉なら)


 なぜか、もう一度「戻れる」という確信が、根拠もなく湧き上がってきた。初めてのセッション。スピーカーから届いたのは、落ち着いた、そして凛とした声だった。


 淡々と、しかしミリ単位の正確さで、こちらの不甲斐ない動きを指摘してくる。安っぽい励ましはない。根拠のない期待も持たせない。


『今日は、ここまで。お疲れ様でした』


 その最後の一言に、不思議なほど深く、自分自身が納得しているのが分かった。


(……信じられる。この人なら、預けられる)


 初対面の、それも画面越しの存在にこれほどまでの信頼を寄せた自分に、少しだけ驚いた。今になって、あの日の自分を振り返る。


 あの時の高揚感。それを「恋」と呼ぶには、当時はまだ、名前も重みも足りなかったのかもしれない。ただ───。


(この人に、見てほしい)


 そう、強く、激しく願ったことだけは覚えている。再生していく筋肉を。戻っていく呼吸の音を。そして、無様な姿を晒してでも、もう一度立ち上がろうとする「自分自身」という人間を。すべてを、彼女の目に焼き付けてほしかったのだ。

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