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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第14章 画面の向こうに触れられない恋【自覚編】

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16.誰かの恋が道をひらいた


 夜の回廊は、凪いだ海のように静かだった。すべてのセッションを終え、誰もいなくなったジムのフロアに残っているのは、アイナただ一人。端末をそっと胸に抱き寄せ、肺の奥まで夜の清寂を吸い込む。


(……恋、なのね。本当に)


 自分の唇でその事実を認め、言葉として解き放ってから、世界の輪郭がほんの少しだけ鮮やかに、そして優しく変わった気がしている。


 佐久間太一の、迷いを振り切ろうとする深い呼吸。再構築されていく肉体を慈しむような、慎重な動き。セッションの終了間際、張り詰めた緊張が解けて、ふっと少年のような幼さを見せる表情。


(ただそれを見ているだけで、こんなにも心が凪いでいくなんて)


 教官としては、完全な失格。自分でも呆れるほど、公私の境界が溶け出している。わかっている。規律を重んじてきた自分にとって、これは本来、あってはならないエラーなのだ。それでも───。


 ふと、暗がりの向こうに二人の背中が重なった気がした。新人のナツメ。そして、同僚のグレン。


(……あの子は、最初からずっと必死だったわね)


 ナツメは、画面の向こう側にいる「誰か」を懸命に想い、それでも現実という地平を懸命に踏み締めようともがいていた。そしてグレンもまた、教官という職務の仮面を被りながら、その実、魂のすべてを彼女へと向けていた。


(だからこそ……)


「……本当の恋に、なれたのね」


 ここ───現実と理想が交差する、この場所で。アイナは、誰に見せるでもなく静かに微笑んだ。


「あなたたちが、先にこの不毛な荒野に道を作ってくれたのね」


 かつて、この世界において恋は禁忌だった。教官とユーザー。それは指導する記号と、指導される記号に過ぎなかった。規律は絶対で、感情の介入はシステムへの反逆と同じだった。


 けれど、ナツメが激しく想い、グレンがその熱を受け止めて想い返したから。絶対だったことわりに、たったひとつの「例外」という穴が空いたのだ。


(羨ましい……なんて、思っちゃうのは贅沢かしら)


 胸の奥で、小さく、けれど純粋な本音が芽吹く。あんな風に、最初から互いの熱を信じて突き進めたなら、どれほど強くなれただろうか。


 けれど───。アイナは、自分の胸にそっと手を当てた。そこにある鼓動は、紛れもなく彼女自身のものだ。


(私は、私のやり方でいいわ。私たちらしい歩み方で)


 佐久間太一は、決して過去の誰かの代役ではない。そして自分もまた、先駆者たちの恋の轍をただなぞるだけの影ではない。


(でも、これだけは言わせて)


「ありがとう」


 誰に向けた感謝なのか、自分でも判然としないまま、独り言のように呟く。


 一途だったナツメへ。

 不器用だったグレンへ。


 そして───。かつては氷のように冷たかったこの世界が、「恋を許す場所」へと形を変えた、その奇跡そのものへ。手元の端末が、静かに青白い光を放った。太一から届いた、今日という日を締めくくる最後のメッセージ。


『今日も、本当にありがとうございました。アイナさんがいてくれて、救われました』


 短い言葉。けれど、その行間から溢れ出す熱が、アイナの指先を温かく包み込む。アイナは震える指を画面に伸ばし、一文字ずつ、大切に打ち込んだ。


「こちらこそ、ありがとうございます。……また、明日」


 送信ボタンを押す。


(焦らなくていい。急がなくていい)


 誰かが命懸けで切り開いてくれた道の上を、自分は自分の速度で、彼と歩幅を合わせて歩いていけばいい。そう心から思えた、深く、静かな夜だった。

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