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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第15章 触れずとも、確かに隣に【定着編】

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17.輪郭をなぞる呼吸


 夜のジムが、いつの間にか好きになっていた。日中の喧騒が去り、巨大な機材たちが放熱を終えて静まり返る時間帯。床に響く重い音も、誰かの荒い呼気も消えたこの空間で、アイナは一人、フロアの静寂を見渡す。物理的には誰もいないはずの空間に、今の彼女には確かな「熱」が感じられた。


(……来ているわね)


 手元の端末を確認するまでもない。この時刻、この静寂の中で、佐久間太一は必ずアプリ《ここ》に接続し、彼女を待っている。彼のトレーニングには、もはや以前のような悲壮感漂う派手さはない。限界まで追い込む叫びも、過度な重量への固執もない。


 あるのは、深く穏やかな呼吸と、ミリ単位で繰り返される精密な動作の集積だけだ。接続された画面越しに、彼の筋肉の微細な震えを読み取る。


「肩、少し力んでいるわよ。僧帽筋で代償しないで」


 声をかけると、太一は素直に、そして深く息を吐き出した。


『……やっぱり、わかりますか?』

「わかるわ。あなた、疲労が溜まってくると右の肩甲骨を上に逃がす癖がある。自覚して」

『はは、さすがだな。自分じゃ気づかないうちに甘えてたみたいだ』


 スピーカー越しに、小さく、けれど柔らかな笑い声が届く。その何気ないやり取りのひとつひとつが、アイナにとってはもう、単なる「業務」の範疇を遥かに超えていた。


(……これが、誰かと共に生きるということなのね)


 誰かの身体が、一度壊れた欠片を拾い集めるように整っていくのを見届ける。かつて恐怖に萎縮していた筋肉が、再び持ち主との信頼を取り戻す瞬間に立ち会う。それを───愛しいと感じ、守りたいと願ってしまう自分がいる。


(恋、だというのに)


 不思議と、以前のような胸を掻きしられるような苦しさはなかった。今すぐ現実で会わなければならないという衝動も、触れられないことへの焦りも、今の彼女の中では凪いでいる。


(今のこの距離が、二人にとって一番、安定した支点になっている)


 心から、そう思える。


「今日は、徹底的に腹圧からいきましょう」


 アイナは静かに、トレーナーとしての深度を上げる。


「横隔膜を深く下げて。骨盤底筋と連動させるイメージよ。内側から圧を高めて」


 太一が深く息を吸い込み、画面上のインジケーターが腹部の膨張を捉える。腹横筋がコルセットのように締まり、身体の芯に円柱のような強固な安定が生まれていく。


「いいわ。脊柱、一ミリも動いていない。完璧よ」

『……くっ、効いてきました。内側が熱い』

「効かせているの。壊しているんじゃないんだから、その熱をしっかり感じて」


 種目は、一見すれば地味なものばかりだ。デッドバグ、バードドッグ、スプリットスクワット。


 だが、アイナの鋭い目は、画面越しであっても一切の妥協を許さない。腸腰筋の動員タイミング。中臀筋のわずかな反応の遅れ。足裏の三点にかかる荷重バランス。


「右。踵がわずかに浮いているわ」

『……本当だ。無意識に前足荷重になってる』

「骨盤が前に逃げようとしている証拠。元の位置に戻して、垂直に受けて」


 修正を加えるたび、太一の肉体という構造物が、ほんのわずかずつ、あるべき正位置へと整っていく。筋肉は、残酷なほどに、そして感動的なほどに嘘をつかない。正しい入力を与えれば、それは必ず目に見える安定という出力で応えてくれる。


(この人の身体が、魂の居場所として戻っていく)


 それは、アイナ自身の空虚だった心が満たされていく感覚と、恐ろしいほど似通っていた。


「……セッション終了。お疲れ様でした」


 太一は額の汗を拭いながら、深く、長い満足げな息をついた。


『……前よりずっと、動くことが楽になりました。身体が自分の一部だって、やっと信じられる』

「ええ。あなたの筋肉が、あなた自身をもう一度信じ始めている証拠よ」


 その言葉に、太一は画面越しに、少しだけ目を細めて微笑んだ。


『……アイナさんにそう言ってもらえるのが、何より嬉しいです』


 アイナは、胸の奥で静かに誓う。


(この時間が、この関係が続くなら)


 恋人という形にならなくてもいい。言葉で定義して、この脆くも美しい均衡を壊さなくてもいい。ただ───。


(あなたの身体が、このアプリ《世界》に繋がっている限り)


 私は、この場所で、あなたを支える教官として生きていける。そう、確信していた。


 画面一枚を隔てた二人の間には、物理的な距離など意味をなさないほどの、しなやかで強靭な絆が育まれていた。

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