18.予感は、音もなく降り積もる
その日は、やけに静かだった。いつもなら意識の端に追いやっているジムの空調音すら、耳に障るほど遠く、鋭く感じる。空気の密度が一段階変わったような、肌を刺す微細な違和感。
(……妙ね。何かが、違う)
アイナは事務室でトレーニングログを更新しながら、小さく眉を寄せた。数値データには、一点の曇りもない。太一の股関節の可動域、最大筋出力の安定性、そして疲労からの回復速度。すべてが、リハビリの最終段階を示す完璧な放物線を描いている。
それなのに───。説明のつかないざわめきが、肺の奥に澱のように溜まっていく。
「今日は、メインセットの前にストレッチを多めに入れましょう。連動性を再確認したいの」
『了解です。お願いします』
太一は画面の向こうで素直にマットへ座った。股関節の内旋可動域の確認。ハムストリングスの滑走性の改善。腰椎と胸椎の分離運動。ひとつひとつ、慈しむように、丁寧に、ゆっくり。
『……アイナさん』
「なに? どこか張るかしら」
『いえ。……最近、アイナさんの表情が柔らかいなと思って』
一瞬、コンソールを操作するアイナの指が止まる。
「……そう? 私は、いつも通り厳格に指導しているつもりだけれど」
『はい。でも、前より呼吸が深いというか。……何て言うか、笑っていなくても、声が微笑んでいる気がするんです』
(見ているのは、私の作ったメニューや筋肉だけじゃないのね……)
「気のせいよ。あなたの観察眼が、トレーナー時代に戻ってきた証拠ね」
そう受け流しながら、否定しきれない自分を自覚していた。彼という存在が、私の内側にある「教官」という名の硬い殻を、少しずつ、けれど確実に溶かしていた。
太一がストレッチを終え、すっと立ち上がる。肩甲骨が以前よりも自然な位置に落ち、鎖骨のラインが綺麗に開いている。背中のアウトラインも、かつての彼が持っていたであろう均整を取り戻していた。
(戻ってきている。確実に、彼は「こちら側」へ)
それなのに。
(もし───)
胸の奥で、形にならない思考が不吉に揺れる。
(この穏やかな時間が、永遠ではなかったとしたら?)
その夜。すべての事務作業を終え、静まり返ったフロアを抜けて自室へ戻ろうとしたときだった。
───光。
視界の端で、ほんの一瞬、雪の結晶が弾けたような白い火花が散った。
「……?」
咄嗟に振り返るが、そこには無機質なトレーニングマシンが並んでいるだけ。照明の不具合も、機器のエラーログも、何ひとつ異常はない。けれど───。
(今の……今の感覚、知っているわ)
背筋を、氷の指先でなぞられたような戦慄が走る。ナツメが、フウカが、あの「奇跡」を起こす直前。“何か”が決定的に変わる前の、あの特有の物理法則が揺らぐ兆候。アイナは、ゆっくりと自分の拳を握りしめた。
(まだ……今は、まだダメよ)
そう自分に言い聞かせるように、震える肺に冷たい空気を流し込む。太一はまだ、リハビリの途上だ。彼はまだ、その足で「現実」という重力の中に立ちきってはいない。
翌朝。太一は、いつもと同じ時刻にアプリ《ここ》に現れた。
『おはようございます、アイナさん。今日もよろしくお願いします』
「おはよう。体調に変化はないかしら」
何も変わらない、いつもの朝。何も起きていない、平穏なセッション。───それでも。
(来るなら……その時が来るなら、きっと)
胸の奥で、確信めいた覚悟が芽生える。
(きっと、あなたなのね。太一さん)
その予感を、アイナはまだ言葉にして解き放つことはしない。乱れた筋肉の繊維をひとつずつ整えていくように、彼女の心もまた、来るべき「その瞬間」のために静かに備え始めていた。




