19.光が落ちた場所
夜だった。ジムは、すでに閉館時間を過ぎている。最低限に落とされた照明が、整然と並ぶ機材の影を長く床に伸ばしていた。機器は深いスリープモードに入り、ただ静寂だけがフロアを満たしている。それでも、アイナは事務室に残っていた。
(落ち着かない。胸の奥が、ずっと警鐘を鳴らしている)
理由は、わかっている。これまで何度も見てきた、あの不自然な世界の揺らぎ。わからないふりをしてやり過ごすには、空気の震えが、あまりにも鋭すぎた。
───その瞬間だった。
視界を焼き切るような、眩い閃光。空気が高電圧で引き裂かれるような鋭い音が響き、強固な建築であるはずの床が、底から突き上げるように激しく震える。
「……っ!」
アイナは考えるより先に、反射的に走り出していた。事務室を飛び出し、静まり返ったジムのフロアへ。心臓の鼓動が、物理的な痛みを感じるほど速まる。
(来た。予感は、確信に変わった)
ジムの中央。そこには、白光がまだ残滓のように、淡く、青白く漂っていた。その中心、無機質な床の上に───一人の男が、崩れ落ちるように倒れていた。
「……!」
言葉を失いながら、駆け寄る。かつての重厚な肉体ではない。
けれど、病に侵されていた頃の、あの頼りなげに痩せ細った身体でもない。これから何色にでも染まることができる、リハビリを経て、基礎を整え終えたばかりの“何者でもない”身体。
「聞こえる? 意識は……! 目を開けて!」
返答は、ない。けれど、アイナの震える指先が触れた首筋には、力強い脈動があった。肺は静かに、けれど確実に、この世界の空気を求めて動いている。
(生きてる。無事に、辿り着いたのね)
それだけで、全身の力が抜けそうなほど胸が緩んだ。アイナは、迷わなかった。緊急用の医療ポッドを起動させ、重力に慣れていない彼の身体を、割れ物を扱うように慎重に収める。システム・スキャン開始。
【個体識別:タイチ・サクマ】
【生体反応:正常。バイタル、安定】
【記憶損失:検出されず。高次脳機能、良好】
「……っ」
溜まっていた息を、一度に吐き出す。
(良かった。本当に、良かった……)
言葉にすれば、堰を切ったように震えてしまいそうだった。ポッドの強化ガラス越しに、彼の顔をじっと見つめる。穏やかな寝息を立てるその表情は、あまりに無防備で、この世界に拒絶されていないことを示していた。
(あなた……太一さん)
ここに来る前の記憶を、彼はすべて失わずに持っている。
それが、何よりの救いだった。
数時間後。
「……ん……」
微かな、掠れた声。重たげな瞼が、ゆっくりと動く。
「……ここ、は……? 僕は……」
「無理に起きなくていいわ。まだ身体がこちらの重力に馴染んでいないはずだから」
アイナは、できる限り穏やかな、けれど芯のある声をかけた。
「あなたは保護されたの。身体に異常はないわ。安心して」
太一は、ぼやけた視界を泳がせながら、ゆっくりと状況を反芻していく。
「………その、声……アイナ、さん?」
「ええ。私よ」
その名前を、ちゃんと彼は知っている。画面越しに呼び合い、信じ合ってきた、あの時間が確かに繋がっている。
「……夢じゃ、ないんですね」
「現実よ。痛いほどにね」
「……そっか。良かった」
太一は、小さく、満足そうに笑った。
「じゃあ……ここで、続けてもいいですか。僕の、トレーニングを」
胸が、きゅっと音を立てて締まる。
(続ける───)
彼は、元の世界に戻る道を探すのではなく、この過酷で、けれど美しい「こちら側」に留まることを、自らの意志で選んだのだ。
「もちろん。断る理由なんて、どこにもないわ」
アイナは、力強く頷いた。
「トレーニングも、これからの生活も。あなたがまた、自分の足で誇り高く立てるようになるまで。……いえ、それからもずっと、私が責任を持つわ」
太一は、深い安堵に包まれたように、再びゆっくりと目を閉じる。
(……もう、簡単には戻れない)
その不可逆的な事実を、アイナは誰よりも理解していた。ここは理想郷ではない。戦いと、鍛錬と、規律の世界だ。
(それでも、構わない)
付かず離れず、教官と教え子として。触れそうで、決してその一線を越えようとはしない、もどかしい距離。
───友達以上、恋人未満。
その危ういバランスの場所で、彼と共に生き、彼の肉体が完成されていく様を見届けることを。アイナ・ホロウフィールドは、迷いなく選んだ。




