表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第15章 触れずとも、確かに隣に【定着編】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

103/116

19.光が落ちた場所


 夜だった。ジムは、すでに閉館時間を過ぎている。最低限に落とされた照明が、整然と並ぶ機材の影を長く床に伸ばしていた。機器は深いスリープモードに入り、ただ静寂だけがフロアを満たしている。それでも、アイナは事務室に残っていた。


(落ち着かない。胸の奥が、ずっと警鐘を鳴らしている)


 理由は、わかっている。これまで何度も見てきた、あの不自然な世界の揺らぎ。わからないふりをしてやり過ごすには、空気の震えが、あまりにも鋭すぎた。


 ───その瞬間だった。


 視界を焼き切るような、眩い閃光。空気が高電圧で引き裂かれるような鋭い音が響き、強固な建築であるはずの床が、底から突き上げるように激しく震える。


「……っ!」


 アイナは考えるより先に、反射的に走り出していた。事務室を飛び出し、静まり返ったジムのフロアへ。心臓の鼓動が、物理的な痛みを感じるほど速まる。


(来た。予感は、確信に変わった)


 ジムの中央。そこには、白光がまだ残滓のように、淡く、青白く漂っていた。その中心、無機質な床の上に───一人の男が、崩れ落ちるように倒れていた。


「……!」


 言葉を失いながら、駆け寄る。かつての重厚な肉体ではない。


 けれど、病に侵されていた頃の、あの頼りなげに痩せ細った身体でもない。これから何色にでも染まることができる、リハビリを経て、基礎を整え終えたばかりの“何者でもない”身体。


「聞こえる?  意識は……!  目を開けて!」


 返答は、ない。けれど、アイナの震える指先が触れた首筋には、力強い脈動があった。肺は静かに、けれど確実に、この世界の空気を求めて動いている。


(生きてる。無事に、辿り着いたのね)


 それだけで、全身の力が抜けそうなほど胸が緩んだ。アイナは、迷わなかった。緊急用の医療ポッドを起動させ、重力に慣れていない彼の身体を、割れ物を扱うように慎重に収める。システム・スキャン開始。


 【個体識別:タイチ・サクマ】

 【生体反応:正常。バイタル、安定】

 【記憶損失:検出されず。高次脳機能、良好】


「……っ」


 溜まっていた息を、一度に吐き出す。


(良かった。本当に、良かった……)


 言葉にすれば、堰を切ったように震えてしまいそうだった。ポッドの強化ガラス越しに、彼の顔をじっと見つめる。穏やかな寝息を立てるその表情は、あまりに無防備で、この世界に拒絶されていないことを示していた。


(あなた……太一さん)


 ここに来る前の記憶を、彼はすべて失わずに持っている。

 それが、何よりの救いだった。




 数時間後。


「……ん……」


 微かな、掠れた声。重たげな瞼が、ゆっくりと動く。


「……ここ、は……?  僕は……」

「無理に起きなくていいわ。まだ身体がこちらの重力に馴染んでいないはずだから」


 アイナは、できる限り穏やかな、けれど芯のある声をかけた。


「あなたは保護されたの。身体に異常はないわ。安心して」


 太一は、ぼやけた視界を泳がせながら、ゆっくりと状況を反芻していく。


「………その、声……アイナ、さん?」

「ええ。私よ」


 その名前を、ちゃんと彼は知っている。画面越しに呼び合い、信じ合ってきた、あの時間が確かに繋がっている。


「……夢じゃ、ないんですね」

「現実よ。痛いほどにね」

「……そっか。良かった」


 太一は、小さく、満足そうに笑った。


「じゃあ……ここで、続けてもいいですか。僕の、トレーニングを」


 胸が、きゅっと音を立てて締まる。


(続ける───)


 彼は、元の世界に戻る道を探すのではなく、この過酷で、けれど美しい「こちら側」に留まることを、自らの意志で選んだのだ。


「もちろん。断る理由なんて、どこにもないわ」


 アイナは、力強く頷いた。


「トレーニングも、これからの生活も。あなたがまた、自分の足で誇り高く立てるようになるまで。……いえ、それからもずっと、私が責任を持つわ」


 太一は、深い安堵に包まれたように、再びゆっくりと目を閉じる。


(……もう、簡単には戻れない)


 その不可逆的な事実を、アイナは誰よりも理解していた。ここは理想郷ではない。戦いと、鍛錬と、規律の世界だ。


(それでも、構わない)


 付かず離れず、教官と教え子として。触れそうで、決してその一線を越えようとはしない、もどかしい距離。


 ───友達以上、恋人未満。


 その危ういバランスの場所で、彼と共に生き、彼の肉体が完成されていく様を見届けることを。アイナ・ホロウフィールドは、迷いなく選んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ