表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第14章 画面の向こうに触れられない恋【自覚編】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

98/116

14.これは、指導ではない


 夜のジムは、昼間とは全く別の顔を持つ。メイン照明を落としたフロアに残るのは、巨大な機材たちの冷たい輪郭と、日中の喧騒が残していった微かな体温の残滓だけ。アイナは事務室の隅で端末を抱え、佐久間太一から届いた最新の食事データを開いた。


 (……本当に、一口ずつよく噛んで食べているのが分かるわ)


 送信された写真の中の食事は、彼女が提案した通りの、厳格なまでに忠実な内容だった。栄養のバランスも、盛り付けの丁寧さも、非の打ち所がない。


「……真面目すぎるのよ、あなたは」


 独り言を呟きながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを止められなかった。


 (この人は、ちゃんと信じてくれている)


 このアプリの可能性を。提示された指導を。───そして、画面のこちら側にいるアイナ・ホロウフィールドという存在を。


 ふと、トレーニング中の彼の姿が脳裏をよぎる。まだ全盛期には程遠い、痩せ細った腕。それでも、自身の肉体の声を聞き漏らさないよう、必死にフォームを保ち、呼吸を守ろうとするひたむきな背中。


 (守りたい……、支えたい……?)


 その言葉が不意に浮かび、アイナは自らの思考に息を呑んだ。


 (違う。私は彼の教官で───これは職務上の責任感よ)


 必死に否定しようとして、しかし、逃げ場のない事実に直面する。彼の呼吸がわずかに乱れれば、自分の胸が締めつけられる。


 今日のセッション後、ちゃんと眠れているか、無理をしていないか、気になって仕方がなくなっている。何千人もいる他の会員の誰よりも、彼の回復速度に一喜一憂している自分がいる。


 (……これは、もう)


 自分自身を、これ以上誤魔化し続けることはできなかった。




 翌日のセッション。


『今日は、いつもより少しメニューが軽めですね?』


 接続された太一の声は、これまでにないほど穏やかで、親密な響きを帯びていた。


「はい。昨日のバイタルデータに、わずかな疲労の蓄積が見えましたから」

『……そんな、自分でも気づかないようなところまで?』

「当然です。私はあなたの全てを把握しているのですから」


 アイナは即答し、そして自分の言葉の重さに、はっとした。


 (当然……?  私、今、何を……)


『……ありがとうございます、アイナさん』


 感謝の言葉が、染み渡るように胸に落ちる。


「……佐久間さん」


 自分でも驚くほど、声が静かに、そして震えていた。


「私、最近……自分でもコントロールできないほど、あなたのことを考えすぎているみたいです」


 沈黙が流れる。


『それは……』


 太一の慎重な息遣いが、画面越しに生々しく伝わってくる。


「教官としては、あまり褒められた傾向ではありません。客観性を失うのは、指導者として致命的な欠陥だわ」


 自嘲気味に口にし、見えないはずの視線を端末の端へと逸らす。


 (でも)


「……でも、止められないの」


 言葉が、一度溢れ出したらもう止まらなかった。


「あなたが少しずつ、かつての身体を取り戻していく姿を見るのが、たまらなく嬉しい。怖がらずに自分の肉体を動かせるようになったことも、再び自分を信じ始めたことも」


 胸が、苦しいほどに激しい鼓動を刻む。


「それが……ただの『指導者としての達成感』だとは、もう言い切れなくなってしまったの」


 画面の向こうで、太一が大きく、静かに息を吸い込む気配がした。


『アイナさん』

「……はい」

『それ……恋だと思います。少なくとも、僕が今あなたに抱いているのと同じ、恋という名前の感情です』


 あまりにまっすぐな、淀みのない言葉。アイナの思考は白く染まり、一瞬、停止した。


「……」


 否定する言葉が出てこない。怒ることも、笑い飛ばすこともできない。代わりに、長い間ずっと胸の奥で固まっていた結び目が、音もなくほどけていく。


 (ああ、そうか。そうだったんだわ)


「……そうね」


 凍りついていた唇が、自然と柔らかな弧を描く。


「これは、指導じゃない。教官としての義務でもない」


 トップトレーナーとして纏っていた鋼の仮面が、静かに、そして完全に剥がれ落ちていく。


「……恋だわ。私、あなたに恋をしている」


 画面越しに、二人は言葉を交わす代わりに、深く呼吸を合わせる。


 ───まだ、物理的に触れることはできない。

 ───まだ、超えなければならない現実の境界線は幾重にもある。それでも───。


(私を見つけ、選んでくれたのは、あなた)


そして……。


(加工しない、ありのままの私を選んでくれたあなたに惹かれたのは、私)


そのたった一つの真実だけで、アイナのモノクロだった世界は、鮮烈な色を持って輝き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ