14.これは、指導ではない
夜のジムは、昼間とは全く別の顔を持つ。メイン照明を落としたフロアに残るのは、巨大な機材たちの冷たい輪郭と、日中の喧騒が残していった微かな体温の残滓だけ。アイナは事務室の隅で端末を抱え、佐久間太一から届いた最新の食事データを開いた。
(……本当に、一口ずつよく噛んで食べているのが分かるわ)
送信された写真の中の食事は、彼女が提案した通りの、厳格なまでに忠実な内容だった。栄養のバランスも、盛り付けの丁寧さも、非の打ち所がない。
「……真面目すぎるのよ、あなたは」
独り言を呟きながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを止められなかった。
(この人は、ちゃんと信じてくれている)
このアプリの可能性を。提示された指導を。───そして、画面のこちら側にいるアイナ・ホロウフィールドという存在を。
ふと、トレーニング中の彼の姿が脳裏をよぎる。まだ全盛期には程遠い、痩せ細った腕。それでも、自身の肉体の声を聞き漏らさないよう、必死にフォームを保ち、呼吸を守ろうとするひたむきな背中。
(守りたい……、支えたい……?)
その言葉が不意に浮かび、アイナは自らの思考に息を呑んだ。
(違う。私は彼の教官で───これは職務上の責任感よ)
必死に否定しようとして、しかし、逃げ場のない事実に直面する。彼の呼吸がわずかに乱れれば、自分の胸が締めつけられる。
今日のセッション後、ちゃんと眠れているか、無理をしていないか、気になって仕方がなくなっている。何千人もいる他の会員の誰よりも、彼の回復速度に一喜一憂している自分がいる。
(……これは、もう)
自分自身を、これ以上誤魔化し続けることはできなかった。
翌日のセッション。
『今日は、いつもより少しメニューが軽めですね?』
接続された太一の声は、これまでにないほど穏やかで、親密な響きを帯びていた。
「はい。昨日のバイタルデータに、わずかな疲労の蓄積が見えましたから」
『……そんな、自分でも気づかないようなところまで?』
「当然です。私はあなたの全てを把握しているのですから」
アイナは即答し、そして自分の言葉の重さに、はっとした。
(当然……? 私、今、何を……)
『……ありがとうございます、アイナさん』
感謝の言葉が、染み渡るように胸に落ちる。
「……佐久間さん」
自分でも驚くほど、声が静かに、そして震えていた。
「私、最近……自分でもコントロールできないほど、あなたのことを考えすぎているみたいです」
沈黙が流れる。
『それは……』
太一の慎重な息遣いが、画面越しに生々しく伝わってくる。
「教官としては、あまり褒められた傾向ではありません。客観性を失うのは、指導者として致命的な欠陥だわ」
自嘲気味に口にし、見えないはずの視線を端末の端へと逸らす。
(でも)
「……でも、止められないの」
言葉が、一度溢れ出したらもう止まらなかった。
「あなたが少しずつ、かつての身体を取り戻していく姿を見るのが、たまらなく嬉しい。怖がらずに自分の肉体を動かせるようになったことも、再び自分を信じ始めたことも」
胸が、苦しいほどに激しい鼓動を刻む。
「それが……ただの『指導者としての達成感』だとは、もう言い切れなくなってしまったの」
画面の向こうで、太一が大きく、静かに息を吸い込む気配がした。
『アイナさん』
「……はい」
『それ……恋だと思います。少なくとも、僕が今あなたに抱いているのと同じ、恋という名前の感情です』
あまりにまっすぐな、淀みのない言葉。アイナの思考は白く染まり、一瞬、停止した。
「……」
否定する言葉が出てこない。怒ることも、笑い飛ばすこともできない。代わりに、長い間ずっと胸の奥で固まっていた結び目が、音もなくほどけていく。
(ああ、そうか。そうだったんだわ)
「……そうね」
凍りついていた唇が、自然と柔らかな弧を描く。
「これは、指導じゃない。教官としての義務でもない」
トップトレーナーとして纏っていた鋼の仮面が、静かに、そして完全に剥がれ落ちていく。
「……恋だわ。私、あなたに恋をしている」
画面越しに、二人は言葉を交わす代わりに、深く呼吸を合わせる。
───まだ、物理的に触れることはできない。
───まだ、超えなければならない現実の境界線は幾重にもある。それでも───。
(私を見つけ、選んでくれたのは、あなた)
そして……。
(加工しない、ありのままの私を選んでくれたあなたに惹かれたのは、私)
そのたった一つの真実だけで、アイナのモノクロだった世界は、鮮烈な色を持って輝き始めていた。




