13.画面の向こうで息を合わせる
セッションが始まると同時に、空気がピンと張り詰める。
けれどそれは、以前のような拒絶の冷たさではなく、互いの存在を確認し合うための心地よい緊張感だった。
「今日は体幹の連動からいきましょう。骨盤の傾きを意識して」
『了解です。お願いします』
返事が、タイムラグを感じさせないほど即座に返ってくる。その声のトーン、わずかな語尾の強さ。それだけで、今日の彼がどれほど自分をコントロールできているかが手に取るように分かるようになっていた。
(集中している……。呼吸の深さも、理想的だわ)
アイナはモニター越しに、佐久間太一の挙動をミリ単位で追う。腹圧が適切にかかり、背骨が一本のしなやかな軸として安定している。かつてプロのジムトレーナーとして現場に立っていた頃の、あの「動ける身体」の面影が、確実に、そして力強く戻りつつあった。
「そのまま。吐く息を細く、長く」
『……くっ、はい』
声が、少しだけ低く、硬くなる。無意識に力んで、筋肉を固めすぎている証拠だ。
「力で押さえ込もうとしないで。深層の筋肉で“支える”だけでいいの」
『……支える、か』
太一は一瞬だけ目を伏せ、アイナの言葉を噛み締めるようにゆっくりと呼吸を整えた。
『不思議ですね。アイナさんに言われた通りに意識を向けると……身体の奥が、怖くなくなるんです』
「筋肉には記憶があります。無理に壊されると思えば拒絶し、守られていると感じれば、その能力を解放するわ」
『……まるで、心を持った人間みたいだ』
その詩的な表現に、アイナはふっと、硬い仮面を解くように小さく笑った。
「ええ、そうよ。だから、雑に扱うとすぐに拗ねて、動かなくなってしまう。繊細な隣人だと思って接してあげて」
最近、二人の間に流れる空気は、明らかに以前とは変質していた。単に物理的な距離が縮まったというより───画面を越えて、同じリズムで呼吸を共有しているような、不思議な一体感。
『アイナさん』
「何かしら?」
『このアプリ……正直に言うと、最初はリハビリのための便利なツールとしか思っていませんでした』
「……今は、違うの?」
『今は』
太一の声が、陽だまりのように柔らぐ。
『ここに来て、あなたと向き合わないと、一日が締まらない。自分を取り戻した実感が持てないんです』
アイナの胸の奥が、波紋を描くように大きく揺れた。
(それは……それって、私にとっても……)
「過度な依存は、トレーニングの自立を妨げます」
あえて、氷のように冷徹な教官の声を作り、自分を律した。
『あ、いえ、違います! 依存っていう重い意味じゃなくて……』
太一は慌てて言葉を探すように、少しの間を置いてから、噛み締めるように続けた。
『何て言うか……“一緒に自分を整えていく時間”そのものが、今の僕にとって、かけがえのない支えになっているんです』
その真摯な言い回しに、アイナは突き放そうとした自分を恥じ、救われたような心地がした。
「……それなら、何も問題ありません。私も、あなたの変化を見届けるのが日課になっていますから」
セッションが終わる間際。
『あの、アイナさん』
太一が、珍しく歯切れの悪い、逡巡するような声を出す。
「どうしました? どこか痛みでも?」
『いえ、そうじゃなくて。……今日の食事、また写真で送ってもいいでしょうか?』
「ええ、もちろんです。味の感想と、食後の胃の重さも忘れずに報告して」
『はい』
一拍。
『……僕の今の全部を、ちゃんと、あなたに見ていてほしいので』
アイナは、ほんの一瞬、呼吸をすることを忘れて固まった。
(見て……ほしい……)
それは教官として、正しい食事を管理してほしいという意味なのか。それとも───もっと個人的な、魂の渇望に近いものなのか。
「……責任を持って、隅々まで確認します」
喉の奥で震える熱を隠し、そう答えるのが精一杯だった。
夜。静まり返った事務室で、アイナは一人、静かに端末を閉じた。
(私は……一体どこまで彼の人生に踏み込もうとしているのかしら)
けれど、画面の向こうにいる彼は、確かに前を向き、力強く歩み始めている。身体も。そして、おそらくはその心も。
(それなら、迷う必要なんてない)
アイナは、不自然なほど真っ直ぐに背筋を伸ばした。
(私は教官として、あなたの伴走者として、全力で寄り添い続けるだけ)
その想いが、もはや「教官」という肩書きの器には収まりきらなくなっていることに。彼女自身が、自分自身の「恋」という名の筋肉の肥大に気付くのは、もう少し先の話である。




