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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第14章 画面の向こうに触れられない恋【自覚編】

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12.しなやかな増量


 トレーニングの質が変われば、そこに流れる空気の密度も変わる。アイナは、端末に表示された佐久間太一の最新バイタルデータを凝視しながら、熱のこもった吐息を漏らした。

 筋量は計算された曲線を描いて増え続けている。だが、それはただ体積を増やすような強引な膨張ではない。芯が通り、密度が高まっていくような、機能的でしなやかな「戻り方」だった。


(ここからは……守るフェーズから、育てるフェーズへ。ギアを一段上げるわよ)


 画面をタップし、マイクをオンにする。


「……今日は予告通り、メインセットの負荷を一段階上げます。準備はいいかしら」

『……ついに、その時が来ましたか』


 スピーカーから返ってきたのは、覚悟を決めた男の低い声。


「ええ。バルクアップと言っても、あなたの場合は『失ったものを奪還する』という表現が正しいわね。かつての自分を、今の自分が追い越すつもりで行くわよ」


 画面の向こうで、太一がふっと小さく、けれど晴れやかな声で笑った。


『アイナさんは、そうやって言い切る時に微塵も迷いがないですよね。その強さに、いつも救われています』

「……仕事ですもの。教官が迷っていては、生徒はもっと迷うわ」


 事務的に答えながらも、アイナの胸の奥がトクンと跳ねた。自分に向けられた信頼の重さが、心地よい熱となって皮膚の下を駆け抜ける。


(……それだけじゃない。仕事だからなんて、もう自分にさえ嘘を吐けないわ)


 この日から、トレーニングの設計図はより実戦的なものへと変化していった。


 無闇に回数を追わず、一回ごとの負荷と質を極限まで高める。

 セット間のインターバルを戦略的に取り、酸素を全身へ行き渡らせる。

 単なる動作ではなく、収縮する筋肉の「張り」を脳に叩き込む意識付け。


 そして───。画面の隅、これまでグレーアウトしていた特別な機能が、鮮やかな色彩を帯びて起動した。


 【精密食事管理モード:アクティブ】


「……いよいよ、この機能を使う時が来たわね」

『あ、これ……噂に聞いていた、伝説の超難関モードですね』


 太一の声に、微かな緊張と戸惑いが混じる。


『正直に言うと、トレーニングより食事が一番不安なんです。一人だと、どうしても適当になってしまって』

「当然の危惧だわ。いい、太一さん。筋肉はトレーニング中ではなく、その後の『回復』の瞬間にこそ育つのよ」


 アイナは淡々と、しかし情熱を込めて解説しながら、彼の体質と現状に合わせた専用レシピをリアルタイムで組み上げていく。


 高タンパク、低脂質。それでいて消化器官に優しく、視覚的にも「食べる喜び」を損なわない彩り。


(病み上がりの身体に、急激な脂質や添加物は毒になる。一歩ずつ、確実に土壌を整えなきゃ)


「無理はさせないけれど、妥協も許さないわ。あなたの身体を再構築するのは、あなたの口に入れるものなのだから」

『……はい。よろしくお願いします』


 その返事が、心なしか嬉しそうに弾んで聞こえたことに、アイナは気づいてしまった。




 数日後。


『これ……本当に美味しいです。アイナさんの言う通り、スパイスの使い方ひとつでこんなに満足感が変わるなんて』


 画面越しに届く、少し照れたような、けれど確かな生命力を感じさせる声。


「……それはよかった。ただ栄養を摂るだけじゃなくて、『食べられる』という身体の喜びを、魂レベルで取り戻してほしかったの」

『……アイナさん、なんで。なんで、ここまで僕のために尽くしてくれるんですか?』


 不意に投げかけられた、核心を突く問い。アイナの指先が、空中でほんの一瞬だけ凍りついた。


(……それは、私があなたを───)


 教官だから。それが私の役割だから。そんな、いくらでも用意できる防壁のような言葉が、今はどうしても唇に乗らない。


「あなたが……」


 喉元まで出かかった本音を、鋼の意志で飲み込む。


「あなたが、誰よりも真剣に自分と向き合っているからです。その熱に応えないのは、トレーナーとして不誠実でしょう?」


 少しだけ、震える声を隠しながら、正直な想いを混ぜ込んだ。


『……そうですか。ありがとうございます』


 沈黙の向こう側で、太一の心が微かに揺れ、深く納得したような気配がした。




 その夜。閉館後のジム、誰もいないロッカールームで、アイナは冷たい壁に背を預けて目を閉じた。


(私……少し、のめり込みすぎているのかしら)


 ふと、親友であり同僚のグレンの顔が脳裏をよぎる。かつて、手の届かない場所にある光を想い、声を殺して待ち続けていた、あの切なくも強い背中。


(あの時のグレンも……今の私と同じように、胸を締め付けられるような想いで画面を見つめていたのかしら)


 自分でも驚くほど、心臓が熱く、そしてきゅっと狭くなるのを感じる。


(画面の向こう側の存在。触れることも、隣を歩くことも叶わない。……それでも)


 感情という名の筋肉は、論理的な思考よりもずっと先に、激しく脈打ち始めている。




 翌日のセッション。カメラに映る太一の姿勢は、目に見えて変わっていた。丸まっていた肩は後ろに引かれ、胸が誇り高く開いている。呼吸は深く、重厚だ。


『……身体が、魂に追いついてきた気がします』

「ええ。あなたの細胞は、ちゃんと正しい動かし方を覚えているわ」

『それに……』


 一拍、深い溜めを作ってから、彼は続けた。


『アイナさんの熱意に、今の僕の全力で応えたい。そう思うことが、何よりの原動力になっているんです』


 その言葉は、一点の曇りもなく、まっすぐにアイナの核心を貫いた。彼女の喉が、わずかに、けれど熱く鳴る。


「……それは。指導者として、これ以上の喜びはないわ」


 必死に言葉を選び、微笑みを声に乗せる。恋だと認めるには、まだ幾つもの壁がある。けれど、否定するには、あまりにも積み上がった想いが重すぎる。


 筋肉が細胞レベルで形を変えていくように、彼女の内に宿る想いもまた、着実に、そして不可逆的にその姿を変えていく。彼女はきっと、もう二度と引き返せない境界線の上に立っていた。

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