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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第14章 画面の向こうに触れられない恋【自覚編】

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11.言葉にしない謝罪


 夜の事務室に灯る蛍光灯の光は、昼間よりも少しだけ白く、そして鋭く感じられる。閉館後のジムは、日中の熱狂が嘘のように静まり返り、空気さえも低温で凝固しているかのようだった。アイナはデスクで、会員のトレーニングログを整理していた。


 向かいの席では、グレンが無言でペンを走らせている。

 紙をめくる乾燥した音と、壁時計が刻む規則正的なリズムだけが、この閉ざされた空間の主役だった。


(……今なら、言えるかもしれない)


 ふと顔を上げた瞬間、自分でも驚くほど、心臓がトクンと跳ねた。


「……ねえ、グレン」


 名を呼ぶと、彼は動かしていた手を止め、ゆっくりと視線を上げた。いつもの穏やかで、全てを見透かしているような、深みのある眼差し。


「どうした、アイナ。珍しいな、改まって」


 アイナは一度、手元の資料に視線を落とした。言葉を選ぶというより、自分の肺に溜まった重い空気を吐き出し、覚悟を整えるための数秒間。


「前に……あなたに言ったこと、覚えているかしら」


 グレンの眉が、わずかに動く。


「『画面の向こう側の存在なんて虚像よ。いい加減に現実を見た方がいい』って……あんな風に突き放したこと」


 自分の声が、静まり返った室内で思った以上に低く響く。


「……あれは、あまりに酷い言い草だったわね」


 短く、けれど真っ直ぐに。


「今なら、わかるの。あの時のあなたが、どんな熱を持って、どんなに真剣に画面の向こうと向き合っていたのか」


 一瞬の沈黙。張り詰めた空気の中、グレンはふっと息を漏らし、大仰に肩をすくめて見せた。


「さあて。何のことだかさっぱり思い出せないな。俺がそんなにナイーブな男に見えるか?」


 おどけたような、いつもの彼らしい軽妙な口調。けれど、その瞳の奥には、アイナの謝罪を丸ごと包み込むような、慈しみと赦しの色が宿っていた。


「……ありがとう、グレン」


 アイナはそれ以上、何も言わなかった。謝罪の言葉を重ねれば重ねるほど、相手の過去を余計に重くしてしまう気がしたからだ。




 その夜。自室に戻ったアイナは、儀式のように端末を起動した。暗闇に浮かび上がる佐久間太一の最新データ。筋量は、計算された放物線を描いて微増を続けている。体調ログの波も凪のように安定し、回復力そのものが底上げされていた。


(順調だわ……本当に、信じられないくらい)


 それなのに、胸の奥のざわつきは一向に収まらない。むしろ、彼が「元の自分」に近づけば近づくほど、得体の知れない焦燥が影を落とす。セッション開始。


『こんばんは、アイナさん。今日もお付き合いいただけますか』

「こんばんは。もちろんよ。今日は予告通り、下半身中心のメニューを組んでいます」

『……覚悟はしていましたが、やっぱりきますね、これは』


 スピーカー越しに届く、苦笑混じりの低い声。アイナはその響きを全身で受け止めるように、画面を凝視する。


「ええ。でも、今のあなたなら、この負荷にも耐えられるはず」


 その言葉が、あまりにも自然に、そして確信を持って口をついて出たことに、アイナ自身が戦慄した。


(……プロの教官として、彼のポテンシャルを評価しただけよ)


 即座に、自分の中に用意された防衛本能が言い訳を並べる。スクワットの回数を重ねるたび、佐久間の呼吸は深く、重厚な安定感を増していく。その筋肉は、もはや「失われた過去の遺物」ではなかった。痛みを乗り越え、汗を流し、今この瞬間に再構築されている、確かな「現在」だ。


『……不思議ですね』


 インターバル中、彼がぽつりと、自分自身に言い聞かせるように呟いた。


『病院のベッドで動けない体を眺めていた頃は、またこうして自分の足で踏ん張れるなんて、正直、想像もできなかった』

「……そうでしょうね。失うのは一瞬でも、取り戻すのはその何倍も時間がかかるものですから」

『でも今は、アイナさんがいてくれるから。ちゃんと、元の場所……いや、それ以上の場所へ戻れる気がするんです』


 その声には、以前のような怯えは微塵もなく、揺るぎない信頼と確信が宿っていた。


「それは……」


 アイナは一拍置き、震えそうになる声を鋼の意志で抑えて続けた。


「あなた自身が、最後まで自分を諦めていないからです。私は、その背中を押しているに過ぎないわ」


 そして、心の中で、祈るように付け足した。


(私も、あなたを諦めたくない。この関係を、諦めたくないの)


 セッションが終わり、画面が静かに暗転する。アイナはしばらくの間、自分の顔を鏡のように映し出す黒い画面を見つめ続けていた。


(……これが、恋なのかしら)


 はっきりと認めてしまうには、まだあまりに恐ろしい。

 けれど、否定し去るには、胸の内に残るこの熱量があまりに生々しすぎる。かつてグレンに投げつけた「現実を見なさい」という言葉。今なら、その言葉がどれほど無慈悲で、無知な刃であったかが身に染みてわかる。


(画面の向こう側でも……人は、魂ごと本気になることがあるんだわ)


 それを知ってしまった今、もう無垢だった頃の自分には二度と戻れない。


 アイナは、そっと端末を伏せた。筋肉が育つ過程と同じ。

 激しい痛みを伴い、途方もない時間を要し、それでも、破壊と再生を繰り返しながら、一歩ずつ、確実に前へ進んでいく。この震えるような感情が、一体どこへ辿り着くのか───それはまだ、誰にもわからない。


 けれど、少なくとも。もう、自分の心から目を逸らすつもりはなかった。

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