10.増える重量、深まる距離
「……今日は、ここまでにしましょう」
アイナはモニター越しにそう告げ、セッションの計測を一時停止させた。スピーカーからは、微かな、けれど熱を帯びた呼気のリズムが伝わってくる。ユーザー、佐久間太一の呼吸は、以前よりも深く、力強い。荒れてはいるが、決して芯がぶれてはいない。
(いい……とても、いい状態だわ)
画面上のボーン追跡データを見れば一目瞭然だった。フォームの安定性は増し、左右の重心バランスもミリ単位で補正されている。病を経て削げ落ちた筋肉はまだ細いままだが、そこに宿る神経系の「意志」は、確実にかつての輝きを取り戻し始めていた。
「あまり無理はしないでくださいね。今日はバルクアップを意識した、少し重めの刺激を入れていますから」
『はい。正直……かなり、きついです』
デバイスのテキストボックスに躍る、飾らない本音。それがアイナの胸の奥を、ちくりと甘く締めつける。
『でも、不思議と嫌じゃないんです。体が、喜んでいるのが分かるから』
その一文が、静かに続いた。アイナは一瞬、次の指示を出す指を止めた。嫌じゃない。きつくて、苦しくて、筋肉が悲鳴を上げているはずなのに、その先にある何かを求めて止まない。
それは、かつて彼女自身がアスリートとして、あるいはトレーナーとして何度も味わってきた、破壊と再生の恍惚。壊れた繊維がより強く結びつく過程でしか得られない、生の実感。
「……それは、あなたの身体が本気で変わろうとしている証拠です」
努めて淡々と、プロの教官としての言葉を紡ぐ。声音のトーンも、表情の作り方も、いつもの完璧なアイナ・ホロウフィールドのまま。けれど、モニターに映らない内側では、別の感情が激しく囁いていた。
(私も、同じよ……太一さん)
戸惑い、未知の感情に振り回され、胸が苦しい。それでも、この接続を切りたくない。このもどかしい距離さえも、今は愛おしい。
アイナは視線をログデータへと戻した。体重は微増、体脂肪率は理想的な横ばい。筋量の回復率は、AIの予測モデルを大幅に上回っている。
「栄養管理フェーズを、次の段階へ移行します」
アイナはそう告げ、管理画面のパラメータを素早く操作した。
「これからは単なる摂取カロリーの計算だけでなく、タンパク質の吸収効率を高める食材の組み合わせ、そして摂取するタイミングを最優先します」
『……正直に白状すると、料理はあまり得意な方じゃなくて。トレーナー時代も、鶏の胸肉を焼くくらいしかしていませんでした』
「問題ありません。私が提案します」
即答だった。自分でも驚くほどの速さで、言葉が口をついて出た。
「大切なのは、飽きないこと。そして、食事が『作業』にならないことです。心が折れてしまえば、筋肉も育ちませんから」
それは彼に向けた助言であると同時に、自分自身への戒めでもあった。この危うい関係を、ただのデータ通信で終わらせたくないという、無意識の執着。
その夜───。アイナは自室のプライベート端末で、彼のためだけのレシピデータを組み上げていた。高タンパクであることはもちろん、消化器官の負担を最小限に抑え、病後の体力を底上げする構成。塩分を抑えつつも、香辛料やハーブで満足感を出す工夫を、何度も、何度もシミュレーションする。
(……美味しいと、思ってくれるかしら)
ふと、エプロンをつけた自分を想像するような思考がよぎり、アイナは顔を赤らめて苦笑した。
「本当に……私、何を期待しているのよ」
会員の食事指導をするのは、トップトレーナーとして当然の業務。それ以上でも、それ以下でもないはずなのに。
翌日のセッション。
『アイナさんに言われたレシピ、昨日の夜に作ってみました』
送られてきたメッセージに、アイナは身を乗り出すように画面を凝視した。
『久しぶりに、ちゃんと“食べた”という実感が湧きました。味気ない作業じゃなくて、体が満たされる感覚です』
その言葉を目にした瞬間、胸の奥から熱い塊が込み上げてくる。
「……それは、よかったわ。あなたの身体が、栄養を求めていた証拠ですね」
短く返しながら、スマートフォンを握る指先が、ほんの少しだけ震えていた。筋肉は、残酷なほど正直だ。適切な刺激と栄養を与えれば、裏切ることなく応えてくれる。けれど、人の心はそれほど単純ではない。刺激を与えすぎれば壊れ、距離を詰めすぎれば逃げ出してしまう。
(……距離を、間違えないようにしなきゃ)
そう自分に言い聞かせるほど、見えない引力に引かれるように、二人の距離は自然と縮まっていく。
───負荷の重量が増えるたび。
───メニューが難易度を増すたび。
画面越しの、触れることのできない二人の間には、目に見えない絆が着実に積み重なっていた。それはまだ、世間一般の「恋」という名前で括るには、あまりに純粋で、あまりに脆い。
けれど───確実に、二人は同じ理想を抱き、同じ歩幅で未来へと足を進めている。アイナは、静かにモニターの電源を落とした。
「……次は、もう少しだけ、あなたのことを」
自分がどこまで彼のパーソナルな領域に踏み込んでも許されるのか。その境界線を、慎重に、そして欲深に測りながら。筋肉が少しずつ肥大していくように、彼女の内に芽生えたこの感情も、静かに、しかし抗いようのない力強さで───大きくなっていくのだった。




