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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第13章 誰かの理想ではなく、私を見て【選択前夜編】

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07.選ばれたまま、削られない


 その日のログインは、驚くほど静かな立ち上がりだった。


 ──接続中。


 デバイスに表示される文字列は、昨日までと何ら変わりはない。それなのに、アイナの胸の奥は、凪いだ海に小さな石を投じられたような、落ち着かないざわつきに支配されていた。


(……変な感じ。落ち着かないわ)


 理由は、自分でもはっきりと自覚していた。今日こそは、彼の手によって自分に「調整」が入るだろうと予感していたからだ。これまでの経験が、彼女にそう告げていた。


 最初はそのままの姿で始めても、数日も経てばユーザーは欲を出す。しなやかさを残したまま胸を強調し、腰の曲線を不自然なほど誇張し、世間一般の「分かりやすい魅力」へと自分を寄せていく。


 それが、このアプリにおける常識であり、逃れられない摂理だった。だから、今日も。彼もまた、他の誰かと同じように私の輪郭を削り、塗り替えるのだと。


 ──接続完了。


 画面が切り替わり、スピーカーからあの穏やかな声が響く。


『こんにちは、アイナさん。今日もよろしくお願いします』

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 アイナは反射的に、完璧な教官のトーンで応じた。意識は無意識に、自分のモデルステータスを確認するサブウィンドウへと向かう。


(……変わっていない)


 数値も、テクスチャも。昨日、彼が選び取った「アイナ・ホロウフィールド」のまま、何一つ欠けることなくそこに在る。


『今日は、少しだけ負荷を上げたいと思っているんです』


 相手が、画面越しに控えめに提案する。


『でも、今の自分の感覚を壊さない程度に、無理のない範囲でお願いできますか』

「構いません。フォームは昨日の基礎を忠実に守りましょう。何より呼吸を優先してください」


 事務的なやり取り。なのに、アイナの喉の奥には、どうしても確認せずにはいられない問いがせり上がっていた。セッションの合間の、ふとした沈黙。


「……あの、一つ伺っても?」


 アイナは、自分でも驚くほど唐突に切り出した。


『はい、何でしょうか』

「カスタマイズ、しなくていいのですか?」


 胸の鼓動が、一際強く鳴った。彼は一瞬、虚を突かれたように沈黙する。


『……何を、ですか?』

「その……私の見た目とか、パラメーターのことです」


 アイナは言葉を選びながら、努めて冷静に続けた。


「他のユーザーの方は、皆さん、かなり細かく数値をいじると聞いていますので」


 彼が他のユーザーの動向を知っていることは、これまでの会話の端々から察していた。アイナは一瞬だけ視線を伏せ、それから彼を試すような、あるいは自分に言い聞かせるような強い口調で告げた。


「私には、必要ありません。このままでも、十分にあなたの指導は可能ですから」


 一瞬の静寂。画面の向こうで、彼が少しだけ目を見開いた気配がした。


『……ああ、良かった』


 漏れ出たその一言が、アイナの胸に鋭く刺さった。


『正直に言うと、勝手に変えられてしまったらどうしようかと思っていたんです。運営の自動更新とかで』

「え……?」

『今の感じが、すごく好きなので。鍛えられた人の、本当の綺麗さがある気がして』


 ───好き。


 そのあまりに純粋で、何の衒いもない言葉。


(……それ、反則よ)


 教官として返すべき定型文は、脳内のライブラリにいくらでもある。『ありがとうございます、励みになります』といった、当たり障りのない挨拶。けれど、今の彼女の唇からは、そんな借り物の言葉は出てこなかった。


「……ありがとうございます」


 声が、わずかに、けれど自分でも分かるほど柔らいだ。プロ失格の、個人的な喜びが混じった声。


「……このまま、セッションを続けましょう」

『はい。お願いします』


 それだけで、今は十分だった。


 ──本日のトレーニングを完了しました。


 終了を告げるシステム音が、今日はやけに穏やかで、祝福のように聞こえた。


『また、次もお願いします。楽しみにしています』

「ええ」


 アイナは一拍置いてから、自分でも無意識のうちに言葉を繋いでいた。


「……私も、お待ちしています」


 その言葉に、彼が画面の向こうで優しく微笑んだのが分かった。


 ──通信終了。


 画面が暗転し、ジムに静寂が戻る。アイナは誰もいない場所で、自分の手をそっと握りしめた。


(削られなかった。私は、削られなかったんだわ)


 それだけで、重い鎧を脱ぎ捨てたように心が軽い。理想でも、欲望の完成形でもない。「アイナ・ホロウフィールド」という、誰にも侵されていないそのままの自分を見てくれた。それはまだ、恋という形を成してはいない。


 けれど、暗闇の中に一筋の光が差し込んだような、確かな始まりだった。

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